神である主の前に静まれ。主の日は近い
聖書を横に読むの目次
1. 神である主の前に静まれ。主の日は近い。
【聖書箇所】 1章2~13節
ベレーシート
- ゼパニヤ書の1~2章には、ユダのエルサレムに対して、次にその周辺諸国に対する神のさばきの預言が記されています。「さばき」は神の家からはじまるという原則があります。それは神が選んだご自身の民に対する愛のゆえです。しかしそれは完全な滅びをもたらすものではなく、さばきの中から「残りの民」と言われる者たちを回復するためのものです。これは神の民に対する神の統治(ミシュパート)の原則なのです。
①洪水によるさばきとノアとその家族からの新しい出発
②ユダのバビロン捕囚の憂き目とトーラーによる新しい神の民の回復
③イェシュアの十字架の死と復活
④反キリストによる大患難とイェシュアの地上再臨によるメシア王国
⑤白い御座における最後の審判と天から降りてくる新しいエルサレム
1. 「わたしはすべてのものを取り除く」
【新改訳改訂第3版】ゼパニヤ書 1章2節
わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。──【主】の御告げ──
【新共同訳】ゼファニヤ書 1章2節
わたしは地の面から/すべてのものを一掃する、と主は言われる。
- 「取り除く」「一掃する」と訳されたヘブル語の「スーフ」(סוּף)の前に、「集める」の意味の「アーサフ」(אָסַף)という不定詞があります。つまり「集めてから、取り除く(一掃する)」というニュアンスです。いわば「取り除く」ことの強調表現であり、それを表わすために新改訳は「必ず」と意訳しています。
- 「一掃する」の「スーフ」(סוּף)の初出箇所は、エステル記9章28節で「プリムの日が、ユダヤ人の間で廃止されることがなく、・・とだえてしまわないようにした」とあるように、「スーフ」に否定詞が付して用いられていますが、「一掃する」とは、「滅ぼし尽くされる」ことを意味します。完全な破滅です。ゼパニヤ書ではこのことばが3回(1:2, 3, 3)使われています。
- もう一つ「断ち滅ぼす」と訳された「カーラット」(כָּרַת)という語彙があります。ゼパニヤ書では5回(1:3, 4, 11/3:6, 7)使われています。
【新改訳改訂第3版】 ゼパニヤ書 1章3~4節
3 わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。わたしは、悪者どもをつまずかせ、人を地の面から断ち滅ぼす。
──【主】の御告げ──4 わたしの手を、ユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。わたしはこの場所から、バアルの残りの者と、偶像に仕える祭司たちの名とを、その祭司たちとともに断ち滅ぼす。
- 1章6節で「断ち滅ぼす」(口語訳「断つ」、新共同訳「絶つ」)と訳されていますが、ここにはそのような意味の原語はなく、「囲む」という意味の「スーグ」(סוּג)が使われています。それは3節以降に、主が「断ち滅ぼす」者たちのリストが記されており、6節の「主に従うことをやめ、主を尋ね求めず、主を求めない者ども」も断ち滅ぼされる範疇に入るのだという意味で、意訳されているのです。
- 「主を尋ね求める(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)」、「主を求める(「バーカシュ」בָּקַשׁ)」という霊性は、ダビデの霊性であり、花嫁の霊性なのです。主はこの霊性をユダの民に回復することを求めておられるのです。特に、ゼパニヤ書の2章3節ではそのことが強調されています。偶像礼拝、混合宗教の危険性は、なんとなく生ずるのではなく、ダビデの霊性を失う時に入り込んで来るのです。
2. 1章7節の解釈について
- 1章7節についてどう理解すべきか、8節も連動させてそのことを取り上げてみたいと思います。
【新改訳改訂第3版】ゼパニヤ書1章7~8節
7 神である主の前に静まれ。
【主】の日は近い。【主】が一頭のほふる獣を備え、
主に招かれた者を聖別されたからだ。
8 【主】が獣をほふる日に、わたしは首長たちや王子たち、外国の服をまとったすべての者を罰する。【新改訳2017】ゼパニヤ書1章7~8節
7 口をつぐめ。神である主の前で。主の日は近い。主はいけにえを備え、招いた者たちを聖別されたからだ。
8 「主であるわたしが獣を屠る日に、わたしは首長たち、王子たち、すべて外国の服をまとった者たちを罰する。
●「神である主の前に静まれ」の「静まれ」という語彙はここでは「ハス」(הַס)という間投詞が使われており、神の主権的な決定としてのさばきに対して文句は言わせないという「問答無用」的なニュアンスです。
●7節と8節に「獣」(「ゼヴァハ」」זֶבַח)という語彙があります。ここでの「獣」とはいったい何を指しているのでしょうか。ちなみに、新共同訳は「いけにえ」、岩波訳は「生け贄」と訳しています。いずれにしても「いけにえ」としてささげられたならば、それは神のものとなります。神が自由にそれを自分のために用いることができます。
●主がユダの民をさばくために備えられた「ゼヴァハ」(単数)とはバビロンの王のことだと理解します。「主に招かれた者」(複数)とはバビロンの軍勢だと理解します。その獣を神が「聖別」してご自分の道具として用いることを、ここでは「獣をささげる」と表現されているように思います。そのように理解すると話が通ります。そして主は、その獣によってユダの支配階級の者たちを罰すると宣言されているように思われます。「外国の服をまとったすべての者」(複数)とは、アッシリア政策によって政治的・宗教的な特権階級にいた者たちが異教的な影響を受けていたことを示していると考えられます。彼らの責任はきわめて大きく、それゆえ、神のさばきを免れることはできないのです。
2015.6.26
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