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神の熱愛に応えよう

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7. 神の熱愛に応えよう

【聖書箇所】4章1~10節

ベレーシート

  • 今回はヤコブの手紙におけるクライマックスとなる箇所ではないかと思います。成熟を目指すキリスト者にとって、敵である悪魔(サタン)の存在を意識する者とそうでない者とでは決定的な結果がもたらされるからです。悪魔は決して自分の姿を直接に現わそうとするとはしない狡猾な敵です。形を変えて、あたかも悪魔の策略であることを悟られないような形で常に働いています。そして私たちキリスト者に働きかけて、私たちを陥れて神から引き離そうとしているのです。悪魔の策略は私たちのうちにある「欲望・快楽」であり、「世」です。こうした策略を見抜いて、ヤコブが私たちに教えようとしていることに心を留める必要があります。そのことよって確実に成熟することができるからです。

1. 4章1~10節における三つの区分

  • まず、1~10節を概観して、区分してみたいと思います。ここには三つの区分が見られます。まず、明瞭な部分として、三つ目の区分は、「ですから」という接続詞からはじまる7~10節です。ここに見られる特徴的な文体は、命令形(アオリスト)+約束(未来形)です。「・・しなさい。そうすれば、こうなります」という構文です。一つを例にあげると、「神に従いなさい、そして悪魔に対抗しなさい」。そうすれば、「悪魔は・・・逃げ去ります。」となります。
  • ここでの命令形はすべてアオリスト命令形です。つまり、自覚的・主体的決断が求められているということです。そのために悪魔の策略を正しく認識する必要があります。と同時に、その策略に対して、神がどのように対処してくださっているかを知らなければなりません。そうした視点からこのコンテキストを見ると、以下のようになります。

第一区分 1~4節  問題となっている要因
第二区分 5~6節  問題に立ち向かわせる神の恵みの豊かさ
第三区分 7~10節  主体的決断による従順


2. 問題となっている要因

(1) 「どこから」、「ここから」が示している「欲望」

【新改訳改訂第3版】ヤコブの手紙4章1~3節
1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。


  • 1節の冒頭で、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう」とあります。【新改訳2017】では、原文どおり、あなたがたの間の戦いや争いは、どこから来ているのでしょうか。ここから、すなわち・・・」とあります。「どこから」(πόθεν)と「ここから」(ἐντεῦθεν)という副詞を用いて、現実の様々な戦いや争い(衝突)ごとの原因の真相が明確にされています。それによれば、問題の真相とは、私たちの内にある「こうしたい、ああしたい」という「欲望」(「ヘードネー」ἡδονή)なのです。この「欲望」も、2節の「快楽」も同じ原語で、しかも複数形です。
  • 「欲する」(熱望する、切望する)こと自体は罪ではありません。なぜなら、聖なる「熱望・切望」もあるからです。しかし現実に、多くの戦いや争いや衝突が起こっている場合の問題の要因は、多くの場合、自分の「快楽」のために使おうとして悪い動機で求めるために、願っても、ねたんでも得ることができないとしています。これはある意味、神の守りと言えます。
  • 子どもを全くだめにしてしまう(スポイルする)方法があります。それは子どもが求め欲するものをすべて与えることです。「したいように」させてしまうことです。そうした失敗例が聖書の中にあります。たとえば、Ⅰサムエル記 にある祭司エリの二人の息子のホフニとピネハスはその一例と言えます(Ⅰサムエル3:13)。自分の心の中にある「欲望」、しかもそれを、自分の快楽のために浪費するような使い方をコントロールすることができない子どもとして育ってしまった例です。人間の欲膨を満たすことを制御させる養育(訓練)を親が多分に怠ったためです。これは親の責任です。サムエルの子どもたちもそうでした(Ⅰサムエル8:5)。親のサムエルが多忙であったことがその原因かもしれません。
  • エジプトの圧制から救い出されたイスラエルの民たちは荒野に導かれました。荒野は何もない場所であり、生存の保障はただ彼らを連れ出された神にのみありました。しかし多くの人々は水が苦いとつぶやき、毎日与えられていた「マナ」にも飽き、エジプトの「肉」が食べたいと不平不満を並べ立てました。またモーセに与えられていた権威に対して妬んだ姉ミリヤム、民主的な決め方を求めたコラたちの反乱。これらはすべて、彼らのうちにあった「欲望」が原因でした。それらをコントロールすべく神は「みおしえ」である「トーラー」を与えて、神の民として生きるように定められたのです。
  • 紅海渡渉という前代未聞の出来事を経験として、主への賛美をささげた三日後のことです。マラというところに来たとき、「マラの水は苦くて飲むことができませんでした」(15:24)。「水が苦い」ということだけで、民はモーセにつぶやいたのです。

【新改訳2017】出エジブト記15章24~25節
24 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
25 モーセが【主】に叫ぶと、【主】は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、
26 そして言われた。「もし、あなたの神、【主】の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたを癒やす者だからである。」


  • 25節に「主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。」とあります。苦い水を飲める水に変える方法として、主はモーセに一本の木を示しています。この「示す」というヘブル語は「ヤーラー」(יָרָה)です。これは「律法」を意味する「トーラー」(תּוֹרָה)の語源です。つまり、神が示したこの一本の木は「トーラー」を示唆していました。トーラーは神が示した神の民の秩序であり、神の民としてふさわしく生きるための道を指し示す道標です。「一本の木」が、「苦い水」を「甘い水」に変えたのです。

(2) 世を愛し、世の友となりたいと思っている貞操のない者たち

4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

  • キリスト者の間に起こっている戦いや争い、数々の衝突の要因は私たちのうちにある「欲望」であることをヤコブは指摘しています。さらに、ヤコブは問題の要因として「世」(「コスモス」κόσμος)を挙げています。「欲望」(が人間の内側から仕掛けてくるものであるのに対して、「世」は私たちの外から仕掛けてくる罠です。「世」(「コスモス」κόσμος)は、神という方を抜きにした人間世界のことです。神を認めず、神を受け入れず、神を計算に入れようとも、神に従うこともしない世界です。そしてその背後には、イェシュアに対してもそうであったように、この世の栄華を垣間見させ、私たちの「欲望」に訴えて、「もしわたしを拝むなら」と言ってこの栄華を与えると約束するサタンがいます。この「世」を愛する者は神に敵対する者であり、世の友となることも自分を神の敵とすることだとヤコブは語っています。
  • エジプトを出たイスラエルの民がそうであったように、神の「みおしえ」(トーラー)がなければ、イスラエルの民は烏合の衆となってしまいます。イェシュアは正しいトーラーを教えると同時に、その「みおしえ」によって神の民が生きることができるようにするためにこの世に来てくださったのです。そのことが、ヤコブの手紙の4章5~6節に示唆されているように思われます。

3. 私たちのうちに住まわせた御霊をねたむほどに慕っておられる神

【新改訳2017】ヤコブの手紙4章5~6節
5 それとも、聖書は意味もなく語っていると思いますか。「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。6 神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

  • 今回のテキストの中で最も重要な部分です。この箇所をどのように理解するかが大切です。つまり、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」という部分をどのように理解するかが重要だということです。
  • 「私たちのうちに住まわせた御霊」とあります。創造のときに、神は人の鼻から「いのちの息」を吹き込みました。そのことによって人は他の被造物とは異なり、神との交わりの中に生かされる者となりました。とろこが、罪によって、その霊は機能不全を起こしてしまいました。その機能を再び回復させるべく、神は御子をこの世に遣わして、その機能を回復してくださいました。つまり、御子イェシュアを信じることによって、私たちのうちに御霊を住まわして神との交わりを回復してくださったのです。その御霊は神のみこころがなにかを唯一知って、私たちをその方向に向けてくださる助け主です。ですから、「神は、御霊を、ねたむほどに慕っておられる」とは、「私たちをして世を愛させようとしている敵に対して、ねたみを起こすほどに私たちを慕っていてくださる」ということです。つまり、それは私たちのうちにおられる御霊が十分に働くことを強く願っておられるということでもあります。そのためには、私たちの同意が必要です。御霊は単に自動的に働かれるのではなく、その方を住ませている私たちの同意が必要なのです。もし、その同意が得られるなら、「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」のです。
  • ヤコブは、このような神の事実(恵みの現実)を、「聖書は意味もなく語っていると思いますか」と訴えています。つまり、これは神の驚くべき恵みなのだと言わんばかりです。それゆえに、次の区分となる「アオリスト命令形」+「神の約束」につながって行くのです。

4. 神の熱愛と神の恵みに応える従順

【新改訳2017】ヤコブの手紙4章7~10節
7 ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。
9 嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。

  • 「ですから」という接続詞は、その前にある神の熱愛をしっかりと理解し、信じなれければならないことを示唆しています。そして、神は神ご自身の前にへりくだる者に恵みを与える方であることが強調されています。私たちのなすべきことはすでに与えられている神の恵みに与っていきることです。「ですから」、主体的な決断をもってなされるべき勧めが以下のように記されています。

①「神に従いなさい」「悪魔に立ち向かいなさい」・・・・・・
そうすれば、「悪魔は逃げ去ります」
②「神に近づきなさい」・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・
そうすれば、「神が近づいてくださる」
③「手(行為)をきよめなさい」、「心をきよめなさい」(きよめる=純粋なものとする)
④ 神に敵対する世の現実を「嘆きなさい」「悲しみなさい」「泣きなさい」
⑤ この世が与える「笑いを悲しみに(変えなさい)」「喜びを憂いに変えなさい」
⑥「神の前にへりくだりなさい」・・・・・・・・・・・・・・・
そうすれば、「主が高く上げてくださいます」

  • 最後の「主が高く上げてくださいます」とはどういうことでしょうか。以下のような解釈が可能です。

① 神の前にへりくだる者が、より豊かな神の恵みにあずかる霊的な高みに引き上げられること。
② 神のご計画を知ることにより鳥瞰的な位置に引き上げられることで、その全体像を知る者となること。
③「終わりの日」において完全な救いが与えられること。

2017.12.28


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