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第二次伝道旅行 (4) 看守の回心

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26. 第二次伝道旅行 (4) 看守の回心(霊的な大地震)

【聖書箇所】 16章16節~40節

画像の説明

ベレーシート

  • ローマの植民都市であったピリピの町で、主の主権的導きによって紫布の商人である「ルデヤ」という女性とその家族が救いに導かれました。ヨーロッパ伝道の初穂です。彼女は救いと同時に、パウロの宣教に対する献身を表明しました。それが「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか私の家に来てお泊りください」と言って頼み、強いてそうされたことに表されています。パウロの一行はこのルデヤの家を拠点としてピリピに福音を語り続けていました。しかし実際に救われたのは、ルデヤの家族と今回登場する看守の家族でした。しかしこの家族がこれからのパウロの働きを経済的に支えていくのですが、それはルデヤの召命感に基づくものだと思われます。
  • ところで、ひとりの看守とその家族が救われた背景にも神の主権的な不思議な導きがありました

1. 占いの霊につかれた女奴隷との出会い

  • 「占いの霊につかれた女奴隷」には「主人たち」がおりました。普通ならば、一人の主人に複数の奴隷が仕えているものですが、ここでは不思議なことに、一人の女奴隷に対して複数の主人がいるのです。しかし、この主人たちはこの女奴隷に依存しながら、多くの利益を得ていたようです。別な見方をするならば、女奴隷についた「占いの霊」(単数)が、女と主人たちを支配していた構造です。
  • この「占いの霊」はパウロたちがどのような者で、何をしている者であることを正確にピリピの人々に伝えました。ですから、パウロたちがまさに女奴隷の言う通りの者であるとすれば、お株をいただくのは女奴隷ということになります。ところが想定外なことに、この「占いの霊」はイエス・キリストの御名の権威によって女から出て行くよう命じられて出て行きました。そのために、女奴隷の主人たちはもうける望みがなくなったのです。ピリピの町における「占いの霊」がいかに人々の心を支配していたかを物語っています。このことが主人たちの怒りを買ってしまったのです。

2. パウロとシラスの入獄への導き

  • 女奴隷の主人たちの虚偽の訴えにより、パウロとシラスは着物をはがされて鞭を打たれて(脚注)から牢に投げ入れられました。二人にはなんの弁明も許されませんでした。おそらく、群衆も二人に反対して立ったので、ローマの行政長官たちは民衆を恐れて正しく調べることをしなかったのだと思われます。自分の置かれて地位を守るために、町が混乱することを何よりも恐れていたからです。
  • だれもが歓迎しない不条理な出来事の中にも神の不思議な導きがあることをパウロとシラスは知っていました。また、パウロの召命の中には、主の名のための苦しみが組み込まれていました(使徒9:16)。その目的は、苦しみを通して神の慰めの力を明確にあかしされるためです。ですからパウロとシラスは、自分たちに起こった出来事を客観的に見ることができたと思われます。ここに復活の信仰のすばらしい力があります。
  • 牢獄の中で、彼らは真夜中にもかかわらず、神に祈りつつ賛美の歌を歌っています。まさに、状況に支配されない信仰がすでにパウロとシラスの中にあったことは、私たちも大いに学ぶべきところです。後にパウロはピリピの教会に宛てて手紙を書いてますが、その第一章には「状況に支配されない信仰」の重要性について記しているのです。

3. 看守の救い

  • 「真夜中ごろ」(μεσονύκτιον=ちょうど真ん中のμεσος+夜のνύξ)、ミッドナイトは単に深夜を意味するだけでなく、ヘブル的視点から見るなら、「新しい始まり」を意味します。ヘブル人の時間感覚は、創世記1章に「夕があり、朝があった」とあるように、「夕」から新しい一日が始まります。まさに「真夜中ごろ」に、「突然、大地震が起こった」のです(16:26)。「地震」も神の顕現と深くかかわりがあります。すべてを支配される神においては、天変地異は神の意志の現われです。大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動いたために、扉という扉が全部あいて、つないでいた鎖がほどけてしまいました。
  • パウロとシラスを厳重に番をするように命じられた看守(原文は単数)は、大地震が起こるまでは寝ていたようです。目をさました看守は囚人たちがみな逃げてしまった思い、自害しようとしました。当時のローマ法では、囚人を逃亡させた時には、同罪に処せられることになっていたからです。責任の重さと将来が閉ざされてしまった恐れと不安のゆえに看守が自害しようとしたそのとき、パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだのです。もしこのときパウロが声をださなかったとしたら、看守は命を自ら断ってしまっていたのです。看守の心に何が起こったのか聖書にはなにも記されていませんが、おそらく看守の心の中に、突然、霊的な「大地震」(ファンデイション・ショック)が起こったと思われます。それは彼が「救いを求めている」ところに表されています。
  • 「救い」を求める看守に、パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。ここの「信じなさい」はアオリストの命令形です。この時制は、ある時点ではっきりと自分の意志で「信じる」ことを決意することを意味しています。そうすれば、「救われます」の時制は未来形で、必ずそうなることを意味しています。看守はパウロとシラスの勧めに従って主イエスを信じました。そして家族も洗礼を受けたのです。しかも、これらの出来事が夜明けの前に起こったことが驚きです。一夜にしてピリピにおける主にある第二の家族が誕生しました。まさに神の主権において誕生した教会です。そこに人間的な計画は何一つありませんでした。

4. パウロとシラスはローマ市民権を持つユダヤ人であった

  • 37節に「ローマ人である私たち」と38節の「ふたりがローマ人である」というフレーズが出できます。ということは、パウロとシラスが「ローマの市民権」をもっていたということが分かります。もしこのことが、長官たちが知ってしたならば、パウロとシラスは牢獄に入ることもなく、そしてピリピの看守とその家族も救いに入ることはなかったのです。使徒の働き16章はまさに神の不可思議な導きが満載なのです。
  • 獄舎から囚人たちが逃げることをしなかった情報を伝え聞いたピリピの長官たちは警吏を送って、パウロたちを釈放せよと命じました。しかしパウロはそれを聞くと、彼ら(長官たち)はローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまったこと。にもかかわらず、今になって、ひそかに私たちを釈放して送り出そうとしていることに対して、彼ら自身が出向いて来て、私たちを連れ出すべきことを警吏たちに言います。すると警吏たちはそのことを長官たちに報告すると、長官たちはふたりがローマ人であると聞いて恐れ、自分たちから出向いて、詫びを言い、ふたりを牢から外に出して、町から立ち去ってくれるように頼んだとあります。
  • この出来事から何が見えて来るのかといえば、ローマ市民権を持つことの意味です。第三次伝道旅行が終わってパウロがエルサレムに帰った時、パウロが「生まれながらのローマ市民」であることが再び記されます。23章11節に「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムがわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしければならない。』と言われた。」とあるように、パウロがローマ市民権をもっていたことが、ローマに行くことになるきっかけとなるのです。パウロの生まれる前に、彼の両親がローマの市民権を得ていたことが功を発したのです。神の導きの確かさをここに見ることができます。

脚注 「全身創痍のパウロ」
●Ⅱコリント11章23~25節をみると、「むち打たれた(πληγή)ことは数知れず、・・ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれた(ῥαβδίζω)ことが三度・・」とあるように、パウロのからだは全身創痍だったことだろうと思います。使徒の働き16章のピリピでも、パウロは着物をはいでむち打たれ(ῥαβδίζω)、何度もむちで打たれて(πληγή)から牢に入れられました。そこで看守が救われますが、看守は、その打ち傷(πληγήの複数)を洗ったとあります。

①「プレーゲー」(πληγή)
②「ラブデゾー」(ῥαβδίζω)
③「デロー」(δέρω) 使徒16:37「公衆の面前でむち打ち」


2013.6.20


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