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花嫁の美しさをたたえる花婿

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

12. 花嫁の美しさをたたえる花婿

【聖書箇所】 4章1〜7節

ベレーシート

  • 雅歌において花婿が花嫁の容姿の美しさをたたえている箇所は4回あります。
    (1) 4章1~7節・・⇒髪、歯、唇、口、頬、首⇒乳房
    (2) 5章10~16節・・⇒髪、目、頬、唇、手、腰⇒
    (3) 6章5~7節・・目、⇒髪、歯、⇒頬
    (4) 7章1後半~9節・・⇒腿、臍(=へそ)、腹、乳房、首、目、鼻⇒
  • 上記の(1)~(4)を観察すると、明らかに花嫁の身体を上から下へとたたえる線(1)(2)と、顔を中心にたたえる(3)、そして下から上へとたたえる線(4)があることが分かります。その他にも、1章9~10節、15節では、花嫁の「頬、首、目」の美しさがたたえられています。
  • 4章1~7節では花嫁の顔から乳房までの部分に花婿の視線が行っていますが、いずれにしても、花嫁の美しさが最大限に描写されていることには変わりありません。今回は、4章7節を中心にして、傷なき(無垢なる)花嫁について考えてみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】雅歌4章1節、7節
1. ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。
なんと美しいことよ。

7. わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、
あなたには何の汚れもない。


1節にある「ああ・・なんと」と訳されたことばは、ヘブル語では「ヒンナーフ」(הנָּךְ)ー直訳は「あなたは見なさい」-という、言葉にならない感動と驚きを表しているように思います。他の聖書では、「本当に」(バルバロ訳)、「なんと」(フランシスコ会訳)、「ほんとうに」(岩波訳)と訳しており、新共同訳は基本的にこのような感嘆的語彙は訳さない方針のようです。「ヒンナーフ」(הנָּךְ)、それは人が眠りからさめて目の前に連れて来られた「ふさわしい助け手」を見たときの感動にも似ているように思われます。


1. 花嫁の美の極みは、花婿の喜び

  • 雅歌を瞑想して分かることは、花嫁についてはその美しさがたたえられているだけで、花嫁は隅から隅まで完全無垢だということです。傷など一箇所もないのです。これはまさに、罪を犯す前の「アダムとエバ」を思い起こさせるだけでなく、キリストが教会のためにご自身をささげられたことによって、きよめられ聖なるものとされた「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」(エペソ5:27)の姿を想起させます。

「人が、ひとりでいるのは良くない」と神である主は、人を眠らせて、その人のあばら骨をとって彼に「ふさわしい助け手」を造られました。眠りから覚めた人の「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女(「イッシャー」אִשָּׁה)と名づけよう。これは男(「イーシュ」אִישׁ)から取られたのだから。」という喜びと感動(創世記2:23)、および「それゆえ男は・・妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(同、2:24)という真理の奥義が、そのまま雅歌の中に描かれているような感じがします。それゆえ、花嫁には一切の(罪の)傷がないのです。そして、使徒パウロはこの「アダムとエバのかかわり」を、「キリストと教会」(花婿と花嫁)のかかわりの型だと解釈しています(エペソ5:31~32)。

  • 雅歌4章7節の「あなたには何の汚れもない」と訳されたフレーズですが、原文は「ムーム・エーン・バーフ」(מוּם אֵין בָּךְ)で、意味は「あなたのうちに傷はない」です。新改訳は「傷」を「汚れ」と訳しています。本来、この「ムーム」(מוּם)は祭司用語で、祭司の中で身体的な欠陥、あるいは障害を持つ者は幕屋(神殿)の聖所に近づくことも、またささげ物の務めをすることも禁じられていました。ささげものそれ自体も一切の傷や欠陥があってはならなかったのです。したがって、花嫁もそうした傷があってはならないのです。

2. やがて花嫁は「傷なき者として」花婿の前に立つ

  • 花嫁は「傷なき者として」花婿の前に立つのでなければなりません。なぜなら、エバがアダムから造られたように、花嫁は花婿から出た(造られた)者だからです。花嫁は花婿のきよさと美しさの反映でなければならないのです。これが「一体である」ことの奥義と言えます。その視点からキリストの贖罪を考える必要があります。もともと汚れのある花嫁を贖罪によってきよめて、ふさわしい花嫁にするのではなく、神のご計画によれば、この世の基が置かれる前から、キリストの花嫁はキリストにあって選ばれ、傷のない美しい花嫁として造られたがゆえに、花嫁の贖いが求められたのです。そこに花嫁に対する花婿の愛があるのです。
  • これは神の民であるイスラエルに対しても同じことが言えるのです。なぜなら、イスラエルの民は合意のもとで神と結婚し、神の妻となったからです(出エジプト19章)。教会はイェシュアをメシアと信じるユダヤ人信者と異邦人信者の共同体です。イスラエルの民とは別個の共同体です。イスラエルの民に対する祝福とその務めは、旧約で明らかにされていますが、「教会」の存在とその務めは神のご計画の中では天と地の基が置かれる前からすでに存在していましたが、新約の時代になってはじめて啓示された奥義なのです。使徒パウロはその啓示を最初に受け取った人でした。教会は、決して一部の人が言うように「霊的イスラエル」(聖書にはそのような表現はありません)ではありません。
  • イスラエルの全家がイェシュアをメシアとして信じるようになるのは将来のことで、メシアの地上再臨の前です。なぜなら、イスラエルの全家は「恵みと哀願の霊」によって民族的に悔い改め、神に立ち返り、世界の四方から集められることが預言されているからです。そのとき、イスラエルは本来の美しさを取り戻します(ホセア14:4~7)。さらに重要なことは、「その日、ー主の御告げ。-あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル(=主人)』とは呼ぶまい。」(ホセア2:16)とあるように、やがてイスラエルの民は神を「私の夫」と呼ぶようになることです。これは神とイスラエルの関係が全く変わることを意味しています。なぜなら、それはイスラエルの民が主なる神を「主人」とは呼ばす、「夫」と呼ぶようになるからです。つまり、神のしもべとして主人に仕える者ではなく、愛する夫を喜ばせたいという思いを持った妻として、イスラエルが回復するからです。
  • このようにして、地上再臨される王なるメシアであるイェシュアのもとで、「イスラエル」と「教会」はひとつとされるのです。これが神のご計画であり、メシア王国において実現する祝福なのです。


2015.8.22


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