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詩篇37篇37~40節

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

10. 詩篇37篇37~40節

ベレーシート

  • 「木を見て森を見ず」という短絡的な視点ではなく、「森から木を見る」という鳥瞰的な視点から物事を見ることができるならば、人間が抱える多くの問題(悩み)は解決されるはずです。聖書(旧約)は、そうした見方を「まっすぐに見る」という言い方をします。今回の詩篇37篇37節の後半にある「レエー・ヤーシャール」(רְאֵה יָשָׁר)がそうです。「まっすぐ」を意味する「ヤーシャール」(יָשָׁר)は「正しい」「平らな」という意味であり、これは神の基準によるものです。人間の基準ではありません。それは「初めから終わりまで」を見通す鳥瞰的な視点をも意味します。鳥瞰的視点から見るためには、「わたしはアルファであり、オメガである」(黙示録1:8)と言われる方の語ったことばを信じることが不可欠です。
  • 神から遣わされた御子イェシュアは、神のご計画を鳥瞰的な視点から語り、またさまざまな奇蹟を通して御国の福音を語ったのです。しかしそのことを信じない者にとっては、神のご計画の終わりを見る(知る)ことはできません。
  • 今回は詩篇37篇37節を取り上げてみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】詩篇37篇37節
全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。
平和の人には子孫ができる。

【新共同訳】詩編 37編37節
無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
平和な人には未来がある。

【関根訳】詩篇37篇37節
正しきを守り、直きを心がけよ。
そのような人の終わりは平安である。


●上記の三つの聖書を読み比べると頭が混乱します。訳文がかなり異なっているからです。構文としては、命令形の後にその理由を示す文節がありますが、37節の前半と後半がうまく結び合っているのは関根訳です。

●命令形は二つ。一つは「守れ」(שָׁמַר)、もうひとつは「見よ」(רָאָה)です。何を守り、何を見るのかがそれぞれの聖書によって異なっています。
新改訳は「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ」
新共同訳は「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ」
関根訳は「正しきを守り、直きを心がけよ」


1. 「ターム」(תָּם)という語彙の意味

  • 「全き人」「無垢である」「正しき」と訳された原語は「ターム」(תָּם)、「直ぐな人」「まっすぐ」「直き」と訳された原語は「ヤーシャール」(יָשָׁר)です。「ターム」の初出箇所は創世記25章27節、ここはヤコブについて記されている箇所ですが、そこではヤコブのことを何と「イーシュ・ターム」(אִישׁ תָּם)としています。新改訳も口語訳も新共同訳もこぞって「穏やかな人」と訳していますが、岩波訳は「非の打ちどころのない人」と訳しています。そのようなヤコブが兄エサウを騙して長子権を奪ったと聞けば、ヤコブはひどい奴だと私たちは思ってしまうのですが、むしろここでは兄のエサウの方が長子の権利を軽んじたことが問題なのです。なぜなら、ここでのやり取りによってヤコブが長子の権利を自分のものにできたわけではないからです。ただヤコブが長子の権利の重要性を兄以上に正しく理解していたことは事実です。とすれば、ヤコブのように、長子の権利に対する「無垢な正しい理解」を守るという意味で捉えるならば、そのような人には将来があります。

2. 「アハリート」(אַחֲרִית)の語彙の意味

  • 37節の後半の原文は以下のようになっています。

    画像の説明

  • この文節には動詞はなく、接続詞の「キー」(כִּי)と、前置詞の「レ」(לְ)を除けば、あとは名詞だけが並んでいます。そのため翻訳が難しいのです。「アハリート」(אַחֲרִית)は、「将来、未来、子孫、終わり」を意味します。したがって、以下の訳となります。
    新改訳「平和の人には子孫ができる。」
    新共同訳「平和な人には未来がある。」
    関根訳「そのような人の終わりは平安である。」
  • 37節の後半が、前半の命令に関連づけて説明していると考えるならば、関根訳が自然なような気がします。この世にあって、神のご計画における「アハリート」(最後、終わり)を知ることこそ「神の知恵」だからです。

2016.12.27


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