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詩篇41篇に見るメシア

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

7. 詩篇41篇に見るメシア

ベレーシート

  • 詩篇40篇においては、三つの節がメシアに関するものでしたが、詩篇41篇においては9節のみがメシアに関するものとして預言されています。そこで預言されているのは、メシアであるイェシュアが親しい者から裏切られるということです。イェシュア自身がこの裏切りの預言が自分の上に成就することを語っているからです。
  • まずは詩篇41篇9節を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】詩篇41篇9節
私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。

【新共同訳】詩編 41編10 節
わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。

【口語訳】詩篇 41篇9節
わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも/わたしにそむいてくびすをあげた。

【岩波訳】詩篇41篇10節
私が拠り頼んだわが平安の人でさえ、わがパンを食べながら、私に対して踵を大きくしました。


岩波訳が原文に最も近い訳(ほとんど直訳)です。「わが平安の人(「イーシュ・シェローミー」אִישׁ שְׁלוֹמִי、単数・男性)とは、「シャロームと挨拶を交わすことのできるほどに信頼していた親しい人、食事を共にする友人」という意味です。そうした者が「わたしに対して踵を大きくした」、つまり、裏切ったことを意味しています。


1. 詩篇41篇の背景にある出来事

  • 詩篇41篇の背景として、ダビデの息子アブシャロムがクーデターを起こした時、彼に味方した者がいました。それはダビデの議官のアヒトフェルです。ダビデの生涯はイェシュアの生涯の「型」となっています。ダビデが誕生した地はベツレヘム、イェシュアが誕生した地も同じくベツレヘムでした。ダビデが王となったのは30歳、イェシュアが公生涯に入られたのも30歳です。そしていずれも自分と親しい関係にあった者から裏切られたのです。そして裏切ったアヒトフェルもイスカリオテのユダも同じく首をくくって自殺しています。
  • 詩篇41篇9節にあるように、裏切った直接の人物(「イーシュ」אִישׁ)はアヒトフェルのことです。しかしそれは、イェシュアを裏切ることになったイスカリオテのユダの「型」となって成就しているのです。
  • イェシュアは最後の晩餐の席で弟子たちに以下のように語っています。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書13章18~19節、25~27節
18 わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。
19 わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。

25 ・・・「主よ。それはだれですか。」
26 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
27 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」


2. イスカリオテのユダについて言及されている他の箇所

(1) 12人の弟子(使徒)たちの一人として選ばれた

  • イスカリオテのユダの名前は常に12使徒の名簿の最後に記されています。主は彼を選ばれましたが、初めから彼が自分を裏切ることを知っておられたのです(ヨハネ6:64)。

(2) ユダは会計係であったが、実は「盗人」であった

  • イェシュアが十字架の死に向かうことを悟ったマリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イェシュアの足に塗り、髪の毛でその足をぬぐいました。そのマリヤに対して、ユダは「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言いました(ヨハネ12:5)。「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」とあります。次第にユダの本性ガ姿を現わしてきます。


3. 神のご計画におけるドラマ性

  • この世の時間芸術と言われる「音楽、映画、ドラマ」などには、その内容をドマラチックに展開させていく様々な仕掛けがあります。たとえば、ドラマの中にある人間のドロドロとした妬みや裏切り、私利私欲や妨害、そうしたものがドラマ性を高めていきます。これは神のご計画においても同様です。神のご計画の完成に至るプロセスには人間のさまざまな罪の醜い実体がこれでもかこれでもかと登場します。その緊張感がよりドラマ性を高めているのです。
  • イェシュアに望みを抱いていたエマオの二人の弟子たちも、イェシュアが十字架で死んだことで失望落胆しつつ帰路の途上にありました。そこによみがえられたイェシュアが同行して、メシアが栄光を受けられる前に、必ず、苦しみを受けられるということを聖書から説き明かされました。したがって、イェシュアが裏切られることは、イェシュアが栄光を受けるためには避けることのできない必然的な神のご計画だったのです。
  • このように、神のご計画の実現のためには、神が人間の罪をもうまく利用し、それらを取り込みながら、ご自身のご計画を進めておられるという事実を私たちは知り、受け入れなければなりません。しかもそれは、神のご計画の究極の目的が完成する直前まで続くのです。と同時に重要なことは、神のご計画には必ずや完成される時が来るということです。そこは、人間のどんな罪も取り込まれることのない、神の「究極的な安息」の世界(回復されたエデンの園、新しいエルサレム)です。


2016.7.26


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