詩篇68篇に見るメシア
詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。
9. 詩篇68篇に見るメシア
ベレーシート
- 詩篇68篇がなにゆえにメシア詩篇と呼ばれるのかと言えば、18節(新共同訳,19節)がイェシュアの昇天を預言していたと使徒パウロが解釈したからです。パウロは教会を「キリストのからだ」にたとえましたが、かしらなるキリストとからだなる教会がどのようなかかわりを持っているのか、かつその目的は何かを説明しています。
1. イェシュアの昇天・着座の預言
- まずは、詩篇68篇18節とエペソ人への手紙4章8節を見てみましょう。いずれも【新改訳改訂第3版】からの引用です。
詩篇 68篇18節
あなたは、いと高き所に上り、捕らわれた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも。神であられる主が、そこに住まわれるために。エペソ人への手紙 4章8節
そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
- 詩篇68篇でのメシアの人称は「あなた」、エペソ書では「彼」となっています。詩篇68篇における「あなた」がなされた「上り」「とりこにし」「受けられました」はすべて預言的完了形です。すなわち、将来、必ず(確実に)起こることとして完了形で記されているのです。それをパウロはイェシュアに結びつけたのです。
- ちなみに、「いと高き所」(「マーローム」מָרוֹם)とは「天」(「ヒュポス」ὕψος)のことであり、神の右の座を意味します。そのところに「上った」とは「着座された」ことを意味します。神学用語では「昇天」ということです。英語では ascendedです。
【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書3章13節
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
【新改訳改訂第3版】 ヨハネの福音書20章17節
イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
●ちなみに、英語で昇天を表わす表現が以下のように使われています。
(1) went up・・・ 使徒1:10
(2) taken up・・・使徒1:9, 11
(3) lift up・・・・ヨハネ8:28, 12:32
(4) carried up・・ ルカ24:51
2. イェシュアの復活・昇天の目的
- 詩篇68篇18節では、「いと高き所に上った」その目的は「神であられる主が、そこに住まわれるため」と記されていますが、エペソ書4章8節ではその部分の引用が省略されています。しかし9~13節では「そこに住まわれる」ことの目的がより詳しく記されています。
【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙4章9~13節
9 ──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──
11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
●イェシュアが「もろもろの天よりも高く上られた」目的は、上に挙げたようにいくつかありますが、その中心は「キリストのからだを建て上げるため」です。そのために、戦いで勝利して得た戦利品をイェシュアはからだを構成する一人一人に、「賜物」として分かち与えられたのです。
●この真理を例証する「型」としてのダビデのストーリーがあります。そのストーリーとは、サムエル記第一30章に記されている出来事です。ダビデは最大のピンチにして最大のチャンスを王となる前に経験しました。以下を参照のこと。
●ダビデは王となる前に最大のピンチを経験したのです。ダビデはそのとき「非常に悩んだ」とあります。なぜなら、ダビデを信頼して従って来た民がダビデを石で打ち殺そうとしたからです。そんな状況の中で、彼は主によって「奮い立った」(「ハーザク」חָזַקのヒットパエル態)のです。したがって正確には、「自らを奮い起こした」のです。その結果、奪われたすべてを敵から奪い返しただけでなく、戦利品を分け隔てなく民に分け与えたのです。このことによって、ダビデがやがて王となるために不可欠な信頼を得る結果となりました。これは「型」です。というのは、イェシュアが十字架の死からよみがえって、いと高き所に上り、敵から奪い取った戦利品をご自身のからだの構成員に賜物として分かち与えることの予型となっているからです。
3. 教会は今日、神のみことばを教える牧師(教師)を緊急に必要としている
- エペソ書におけるイェシュアの戦利品の分け前は、特に、教会におけるみことばの働きに携わる者に限定されています。これはからだ全体を支える背骨の部分に当たる働きと言えます。キリストのからだである教会には、ほかにも多くの賜物がかしらであるキリストから分け与えられています。
- 特に、エペソ書の「賜物」の中で注目すべきは「ある人を牧師また教師として、お立てになった」という部分です。使徒、預言者、伝道者の働きの他に「牧師また教師」が立てられているのです。この「牧師また教師」は、「牧師」と「教師」が別々の人ではなく、「牧師=教師」という働きをゆだねられている人を意味しているということです。
- 初代教会では、使徒たちは「祈りとみことばの奉仕に専心する」ために、さまざまな働きから自らを聖別しました。つまり、あれもこれもという働きから、みことばの務めに専心したのです。これは今日のローカル・チャーチに立てられている牧師たちにも当てはまります。なぜクリスチャンたちが「堅い食物」を食べることができないのでしょうか。それには理由があります。牧師が聖書以外の話はしても、聖書そのものから多くを語らないために、彼らは聖書の様々な部分を結びつけて神の世界の深みを味わうということができないのです。主に救われた者たちを教会の伝道の道具として使ってはなりません。みことばによって育てる(=整える)ことに徹底する務めこそ、牧師の務めであると信じます。そのためにはみことばを学ぶための多くの時間と忍耐を要します。生まれたばかりの赤ちゃんを、即刻、教会の働き人や戦いの戦闘員にしてはいけません。
- イェシュアの語られた「畑に隠された宝」「良い真珠を捜している商人」のたとえがあります。いずれも、「自分の全財産を売り払ってでも得る価値があることを知っている者がいる」という話です。天の御国はそのような隠された宝、良い真珠を熱心に捜している者たちがいる世界です。神のみことばとその知恵は常に隠されています。それゆえ、それを見出すことはどれほど栄光に満ちたことでしょうか。
- 箴言25章2節の「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」(新改訳改訂第3版)にある「探る」と訳されたヘブル語は「ハーカル」(חָקַר)で、徹底的に調べて、隠された神の秘密を見つけるという意味です。これが神の代理者である王の務めであるとすれば、同じく「王であり祭司」として召された私たちもこの使命を理解する必要があります。その使命とは、神の豊かな知恵を、「この世ばかりでなく、天にある支配と権威」に対して、教会を通して示すということです。つまり、神の隠されている秘密を見つけるという使命が教会に与えられているのです。このことにもっと多くの時間と力を注ぐ必要があると信じます。なぜなら、それが私たちの誉れともなるのですから。
2016.7.30
a:5373 t:2 y:0