****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

詩28篇/B

Ⅰ/A(1~41篇) | テキストPs28 | 原典テキストPs28 | 瞑想Ps28/A | 礼拝用語Ps28 | 恩寵用語Ps28 |

瞑想Ps28/B

  • 今朝の詩篇28篇のキーバースを6節の「ほむべきかな、主。まことに、主は私の願いの声を聞かれた。」としたいと思います。ダビデが王となるまでの約10年間、サウルの嫉妬によって荒野での放浪生活を余儀なくされ、絶対絶命の危機をなんども通らされました。しかし、神はその都度、彼の助けとなり、とりでとなってくださいました。これはひとえにダビデの主に対する信頼の訓練でした。ですから、ダビデも「私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。」としています。この経験の繰り返しによって、信頼はテストされ、その絆は強められたと信じます。
  • 客観的な視点でみるなら、神に油注がれた者たち(キリストある者たち)は、だれでも、主の助けを必要する状況の中に置かれるようです。そしてそのたびに主からの「おりにかなった助け」を経験していくのだと信じます。詩篇4篇にも同様のテーマがありました。3節「知れ。主は、ご自分の聖徒たちを特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。」と。
  • 私もこれまでの伝道牧会において、その助けを何度も何度も与えられてきました。自分の犯した過ちさえも、主は何度もそれを覆って下さいました。まさに「主は、油注がれた者の力、救いのとりで」(8節、共同訳)となってくださいました。もしも、そうした助けがなかったとしたら、私はすでに神から離れていたかもしれません。
  • 主の「おりにかなった助け」を自分自身が経験することで、他の人たちに対しても、主の助けが必ずあることを確信を持って伝え、教えることができます。あるいは、人々のためにとりなして祈ることができます。このように、主の計らいは、単に個人だけの祝福にとどまることなく、共同体全体の益となっていくようです。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional