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詩9篇/B

瞑想Ps9/B

◆この詩篇9篇から1節の「心を尽くして」について考えてみたいと思います。このことばは、この詩篇特有なものではなく、他の詩篇の中にもしばしば使われています。そこで、詩篇において、「心を尽くして」という言葉が意味することは何かを瞑想したいと思います。

◆「心を尽くす」とは、第一に、しなければならない義務ではなく、自発性、自意を意味することばであり、しかも「神が良いお方であり、すべてのことを相働かせて益として下さる方である」という信仰に基づく心の構えと考えます。この詩篇9篇では「心を尽くして、あなたに感謝します」という言い方がなされていますが、感謝は神が最終的な審判者であるという信仰から生まれるものだと信じます。つまり、神が義と公正をもってさばきを行われる方であるという終末論的視点から生まれる感謝(あるいは賛美)です。その意味では、感謝(賛美)は極めて「預言的」と言えます。

◆すばらしいことを聞いたり、見たりして感謝することはだれでもできます。しかし、理不尽な現実の中で「感謝」できるとすれば、それは預言的です。その意味で「心を尽くす」とは、私たちが精一杯の心をもってという意味ではなく、常に、神のなされる最終的な視点から物事を見るという姿勢を表すことばだと私は受け止めます。

◆イエスが「麦と毒麦のたとえ話」をされました。私たちの判断は早急に毒麦は抜き取ってしまうことが最善だと考えます。しかし、イエスの視点はそのままにしておきなさいというものでした。なぜなら、それは、最終的なさばきがなされる前に、毒麦を抜こうとして、一本でも良い麦が抜かれてしまう懸念ゆえの神の配慮からでした。

◆「心を尽くして感謝する」とは、終末論的視点をもたなければできないことです。そんな信仰の視点を常に持って歩みたいと思います。

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