****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

過越の食事、実は、それは婚約式だった

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6. 〔振り返り〕過越の食事、実は、それは婚約式であった

【聖書箇所】
マタイの福音書26章26~29節、ルカの福音書22章14~20節、
ヨハネの福音書13章33, 36節~14章3節

ベレーシート

  • 先週の水曜日から始まった「主の受難24」をここで振り返ってみたいと思います。この「振り返り」は、当初の瞑想プランにはなかったものですが、聖霊が突然示してくださいました。すでに「最後の晩餐」の準備から始まり、そして食事が始まりました。そこでイェシュアの語ったことばを再度振り返り、そこでなされた食事の意味をここで再考するときとしたいと思います。
  • 「振り返り」が示されたのは、日曜日の朝です。当初予定していた礼拝説教内容をキャンセルし、新たに示された事柄を、急遽、慌ただしくまとめたので、十分に検証し練られた内容ではありませんでしたが、定時の礼拝時間を遅らせてでも、どうしても語らなければならなかった内容です。その内容とは、これまでとは全く異なる新しい視点からのもの(といっても、ユダヤ的視点からの解釈)ですが、イェシュアと弟子たちの「最後の晩餐」で語られたイェシュアのことばと、そしてその食事の席で最後に差し出された「杯」(ぶどう酒)が、実は、イェシュアと弟子たちとが婚約するためのものであったということなのです。
  • 聖書の箇所を挙げますが、ここに記された事柄が新しい視点で読まれる時、より明瞭に理解されるのです。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書26章26〜29節
26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」


【新改訳改訂第3版】ルカの福音書 22章14〜20節
14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」
20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。


【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書13章33節、13章36節〜14章3節
33 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。

36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

  • 特に、最後の晩餐の最後に語ったイェシュアのことばは、今日のキリスト教会が聖礼典として大切にしている「聖餐式」制定の根拠となっている箇所です。イェシュアの言われる「新しい契約」とは、結婚を前提とする「婚約式」がなされたという解釈です。「婚約式」をしたのであれば、教会が「キリストの花嫁」と呼ばれるのは当然です。しかし、私はこれまで聖餐式の中にこの概念が欠落していたように思うのです。その大きな理由は、ユダヤの婚礼のしきたりを知らずにいたことです。キリスト教の歴史のある時点から、聖書のルーツであるユダヤ的視点を断ち切ってしまい、ボタンのかけ間違いが起こりました。しかし今日、聖書はユダヤ的視点をもって読まなければ正しい理解ができないのだということが、いろいろなところでささやかれるようになってきています。実は私も今その視点から聖書を読み直している一人なのです。
  • さて、ユダヤの婚礼のしきたりという視点からこの「最後の晩餐」を考える時、聖餐式に与る者のイメージは一新されるはずです。なぜ、イェシュアが「この過越の食事をすることをどんなに待ち望んでいたことか。」と言ったのか良く理解できるということです。これまで覆っていた雲が払拭されて、これまで以上に、イェシュアが語ろうとしていたこと、御国の福音、そして神の御計画(マスタープラン)が明確にされるだけでなく、聖餐に与るたびに、主にある者たちが自分は「キリストの花嫁」であることをはっきりと自覚するようになるのではないかと思います。そしてそれの自覚は、将来に起こる神のご計画に対してますますはっきりと目が開かれていくことになると信じます。

1. ユダヤの婚礼のしきたりにおける三段階

  • ユダヤの婚礼のしきたりには三つの段階があります。その一つは「許嫁(いいなずけ)の段階」、二つ目は「婚約の段階」、そして三つ目は「結婚式」(婚姻)とそれに続く「宴会」(婚宴)の段階です。

(1) 許嫁(いいなずけ)の段階

  • 「許嫁」とは、幼少時に本人たちの意志にかかわらず、双方の親または親代わりの者が合意で結婚の約束をすること。ユダヤの場合、結婚を当人以外の者が決定するということが普通で、聖書の中にもそのことが記されています。たとえば、アブラハムの息子であるイサクの場合、彼の妻をアブラハムの親戚の中から選ぶようにと、アブラハムの家の最年長のしもべであったエリエゼルが、アブラハムの生まれ故郷へと遣わされます。そして見つけたのが、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘のリベカでした。イサクとリベカは許嫁ではありませんでしたが、父親が息子の嫁を見つけるという風習が古くからあったということを示しています。ところが、イサクとリべカの間に生まれた双子の兄弟エサウとヤコブの場合は、親ではなく、それぞれ自分で自分の妻を探したことで苦労しています。特に、兄のエサウはカナン人の女を妻として娶ったために、母リベカを苦しめました(創世記27:46)。
  • 御父が御子をこの世に遣わしたのは、神ご自身の息子に妻を与えるためだと言えます。そのための段取りに必要な費用も実は父親が責任をもっているのです。アブラハムはイサクの嫁を探すのに必要な費用(贈り物も含めて)を最年長のしもべエリエゼルに託しています(創世記24:22,30, 53)。
  • 結婚の約束が取り付けられるかどうか、まずは女性の意志を確認するための宴会を開きます。そのための費用をすべて父親が出すしきたりだったのです。そのことを示す例が以下の箇所にもあります。

【新改訳改訂第3版】士師記14章1~2節、10節
14:1 サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。
14:2 彼は帰ったとき、父と母に告げて言った。「私はティムナで、ある女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、あの女をめとって、私の妻にしてください。」

14:10 彼の父がその女のところに下って行ったとき、サムソンはそこで祝宴を催した。若い男たちはそのようにするのが常だった。


●「祝宴」と訳されたヘブル語は「ミシュッテ」(מִשְׁתֶּה)で、「祝宴、宴会、晩餐、豪華な食事会、ふるまい」とも訳されます。このための出費のすべては、男性の父親が出すのがしきたりでした。

(2) 婚約の段階

  • さて、その祝宴は一週間を費やし、その最後に男性が差し出す「ぶどう酒」を女性が受けて飲んだならば、婚約成立ということになるのです。このことをよく示しているのが、ヨハネの福音書2章に記されている「カナの婚礼」の有名な話です。
  • 私たちの日本の文化でその箇所を読むと、「婚礼」とあるので、すでに二人は結婚し、その婚宴が開かれているのだと思ってしまいます。それが固定観念、つまり理解の型紙です。ですから聖書がなかなか見えてこないのです。この「カナの婚礼」は実は婚約に至るかどうか、そのための宴会がなされているのです。(脚注) カナの婚礼では最後に良いぶどう酒が出てきます。果たして、女性はその良いぶどう酒を飲んだのかどうか、その結果についてはこの箇所では記されていません。しかも、その「良いぶどう酒」がどのようなぶどう酒なのか、それはただ「良い」としか記されていません。実は、宴会の最後に出されるぶどう酒が、やがて花婿なるイエシュアが花嫁のためにご自身の肉を裂いて、流される血であることはまだ伏せられているのです。
  • ユダヤの婚礼では、一旦婚約が確定すると男性は実家に戻り、結婚に備え始めます。伝統的には、一年後に式が持たれることになっていました。畑を備え、耕し、作物が植えられ、父の家に妻を受け入れる準備として部屋が造られます。彼が花嫁を迎えるために、万全の配慮と取り組みがなされ、すべてのことに細心の注意が払われますが、父親がGo サインを出さない限り、花婿は花嫁を迎えに行くことは許されないのです。ですから、結婚の日がいつかということは、花婿にも分からないというわけです。
  • さて、こうした背景から最後の晩餐を見てみましょう。ユダヤのしきたりにおける一週間に渡る宴会で、花嫁の候補とされた女性は花婿のすることをじっくりと観察するのです。この一週間の宴会が示唆しているのが、イェシュアの公生涯です。花嫁候補としてのイェシュアの弟子たちは、この間、花婿となるべくイェシュアのふるまいを見てきたのです。
  • そしてその宴会の最終日に男性の差し出すぶどう酒を女性が受け取って飲むならば婚約成立でした。おそらく、女性の前にぶどう酒を置いた男性は、相手の女性がぶどう酒を飲むかどうかの瞬間ドキドキ・ハラハラだったと思います。もし、差し出したぶどう酒が飲まれなければ、それまでの宴会とその費用はすべて無意味ということになってしまうからです。最も期待が高まるとき、それがイェシュアの言う「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」なのです。まさに、受験生が入試の合格発表を待つような心持ちであったことでしょう。イェシュアの場合、最後の晩餐で差し出したぶどう酒の杯を弟子たちはを受け取って、それを飲んだのです。婚約成立です。ところがその花嫁候補がすぐにも花婿を裏切ってしまうのですが、花婿の差し出したぶどうの杯が「良い」のは、花嫁の罪を赦すだけでなく、きよめる愛と力をもったぶどう酒であったということなのです。
  • 弟子たちはそのイェシュアが差し出すぶどう酒を飲んで、花婿と花嫁という新しい契約を結びました(しかし、まだ正式な結婚はしてはいません)。ところで、婚約が成立するときイェシュアはぶどう酒を飲んだでしょうか。飲まなかったでしょうか。
  • ユダヤの婚礼のしきたりでは、婚約時に二人は杯を交わしますが、花婿となる者はその杯を飲みません。飲むのは花嫁だけです。なぜなら、花婿となる人は結婚するまでの間(おそらく1年間)は、花嫁のために身をきよめるために、また酒の席で放蕩に走って誘惑を受けないようにするために、杯を口にしないようです。口にできるのは結婚式を挙げてからです。イェシュアとその弟子たちとの「最後の晩餐」が「婚約式」であったとするならば、イェシュアが言われたことば「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」という意味が容易に理解できるのです。つまり「神の国が来る時」とは「結婚の時」であり、花婿なるイェシュアが空中再臨によって花嫁なる教会を迎えに来る時(=携挙の時)なのです。
  • イェシュアが最後の晩餐の時に、「あなたがたはわたしを捜すでしょう」と言ったとき、ペテロとの問答が始まります。そしてイェシュアは「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」と言われました(ヨハネ14:2~3)。イェシュアが天に戻られたのは、新居を備えるためです。おそらくペテロはこのことを理解できなかったと思われます。
  • 花嫁を迎える前に、イェシュアが十字架の死によって花嫁の罪の贖い、罪のきよめをなされて花嫁を花嫁としてふさわしく整えるようにされたのも、実は、その準備の一環なのです。

(3) 結婚の段階

  • 最後の晩餐の時に、イェシュアは「過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません」と言われました。それはどういう意味でしょうか。七日間の花嫁(キリストの教会)とのハネムーンの期間(つまり教会の携挙後の七年間)が終わると同時に、地上では大患難を経て悔い改めた神の民イスラエルが「小羊の婚宴」に招かれます。その直前には、彼らもまた本来の妻として回復されるのです。ここでの「過越」とは、イスラエルを大患難から救い出すために、反キリストに対する神のさばきがなされることを意味しています。ですから、その時まで、イスラエルの民(民族的、かつ「残りの者」)は、メシア(キリスト)との婚宴の食卓を囲むことは出来ないということを意味しているのです。

3. 「最後の晩餐」は「キリストの花嫁」となった婚約の場

  • 重要なことは、メシアの再臨なしに、キリストの花嫁(教会)と神の妻であるイスラエルの民とが、妻としての座に着くことはないということです。キリストの花嫁(教会)とイスラエルの民は、メシア王国においてはじめて結婚、再婚による「妻」という共同相続人としての同じ一つの立場に着くのです。それまでは、実際的にこの地上においてイスラエルと教会(メシアニック・ジューと異邦人)の一致はあり得ないのです。それゆえ、私たちは「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行なわれますように」と祈らなければならないのです。
  • 今日、教会でなされているキリストのからだと血とに与る「聖餐式」は、以下のように大きく三つの意義があると理解されています。

① 私たちを救うために死なれたキリストを覚えること(過去)
② キリストを信じる教会の一員であることを確認すること(現在)
③ 神の国の完成時の喜びの祝いを展望すること(将来)

●「聖餐の聖書的な理解を求めて」(聖書神学舎教師会編、いのちのことば社、2004年、193〜194頁)

  • 聖餐式の中で最も認識が弱い部分は、③の「将来的展望」です。なぜなら、キリスト者にとって自分は「キリストの花嫁」として花婿なるイェシュアと婚約した者であるという認識が希薄だからです。「終わりの時」が近づいていることを覚えるならば、聖餐の式に与るたびに、この「キリストの花嫁」としての自覚がますます強められる必要があると信じます。

    画像の説明


脚注
ヨハネの福音書2章で「婚礼」(a wedding)と訳されているギリシア語は「ガモス」(γάμος)ですが、これをヘブル語にすると「ハトゥナー」(חֲתֻנָּה)で、結婚とか婚礼と訳されるのですが、その元になっている動詞は「ハータン」(חָתַן)は強意形のヒットパエル態で用いられ、「互いに縁を結ぶ、婿になる」という意味です。名詞の「ハーターン」(חָתָן)の意味も「花婿、婿、隕石」という意味です。つまり、ヨハネ福音書2章の「婚礼」がすでに結婚した後の披露宴をしているわけではないということです。宴会の最後に花婿候補が花嫁に結婚を申し込む時の、最後のぶどう酒がなくなったことの話がなされているのです。最後に花婿候補が良いぶどう酒を花嫁となってほしい相手に差し出され、それを花嫁候補が受け取ったとき、はじめて両者互いに花婿と花嫁としての縁を結ぶことになるのです。つまり、婚約成立ということなのです。この話を私たちがイメージする「婚礼」という言葉で理解してはならないのです。時が来て、イェシュアが最後に出すことになるぶどう酒(=十字架の血潮)を私たちが受け取ったならば、やがてイェシュアと結婚しても良いという意志を表明したことになり、「キリストの花嫁」となるのです。

2015.3.16


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