****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

霊性の回復の「しるし」

4. 霊性の回復への「しるし」

はじめに 

  • 霊性の回復の恵みを受ける人たちには共通した「しるし」があります。その「しるし」とは、以下にあげる三つことです。これらは別々の事柄ではなく、それぞれ密接に連鎖しています。

1. 義に飢え渇いていること

  • 霊性の回復の「しるし」の第一は、「義に飢え渇いていること」です。ここで言う「義」とは倫理概念ではなく、関係概念です。つまり「義」とは神との親密なかかわりを意味します。それは神の声を聞くことでもあります。ダビデはそうした神との親密なかかわりを「主の家に住む」と表現しました。詩91篇の作者は「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」と表現しました。そうしたかかわりに「渇いている」ことが、霊性の回復のひとつの「しるし」です。 
  • 「わたしのたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」(詩42篇2節)とあるように神のすべての祝福は渇いているたましいに注がれます。「たましい(魂)」と訳されることばは、ヘブル語の「ネフェシュ」で本来「のど」を意味します。それがさらに「欲望・切望」の意味に転化し、それが満足させられなければもはや生きていけない根本的欲求です。つまり人間は、飢え渇いた「のど」のように、その欲求を満たそうとする渇望の存在(かたまり)と言えます。そのようなネフェシュが真にいやされるのは神を見出した時です。神にふれたネフェシュだけが充足を知るのです。自分の魂に向かって呼びかけ、神を慕い求め、神を尋ね求めているならば、霊性の回復はすでにその人のうちではじまっていると確信してよいのです。

2. 「主の家」、「隠れ場」に住もうとすること

  • 霊性回復の第二の「しるし」は、「主の家に住む」という神との親密な交わりが、その人の中に「ただ一つのこと」として、つまり、なによりも優先した願いとなっていることです。ダビデはその意味で私たちの理想的なモデルです。彼は「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。」(詩27篇4節)と告白しています。 「ただ一つのこと」とは、「主の家」「いと高き方の隠れ場」に住むことです。そこは誰にも知られない心の奥深くにある秘密の場所、シークレット・プレイス(secret place)です。
  • ダビデの霊性を自分のライフスタイルに取り込もうとする決心があるなら、その人は、イエスが最初の弟子となったナタナエルに語られたように、「さらに大きなことを見る」ようになります。つまり「目からうろこ」が落ちるように、神の「きわめて重要な事柄」がその人のうちに示され、驚くべき発見を絶えずするようになります。また、主に仕える力-油注ぎーも与えられ続けます。ですから、もし私たちが「主の家」「隠れ場」の内にとどまらないならばーつまり自分の力に頼って神の働きをしようとするならばー、やがて失敗と挫折が待ち受けています。

3. 神との交わりを「楽しい」と思えること 

  • 神との親しい交わりは強制されてできるものではありません。そこに「楽しみ」を感じることがなければ続けられません。「楽しみ」が感じられるのは、「目からうろこ」が落ちて、日々新しいことを発見し、気づきが与えられるからです。パウロはその「楽しみ」を「内なる人は、日々新しくされている」と表現しました(Ⅱコリント4:16)。詩92篇の作者は「年老いてもなお、 ・・みずみずしく」と表現しました。何かをしなければという義務から解放されているのが遊びの世界です。神の子どもとして、主の家の大庭で、自由に、自発的に遊ぶことによって、より創造的なものがその人のうちに培われていきます。神との交わりの中にそんな楽しさを少しでも感じているとしたら、その人のうちに霊性の回復の恵みが豊かに訪れていると言えます。

2010.2.18


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