****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

1章2節


創世記1章2節

【新改訳2017】

地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

ב וְהָאָרֶץ הָיְתָה תֹהוּ וָבֹהוּ וְחֹשֶׁךְ עַל־פְּנֵי תְהֹום וְרוּחַ אֱלֹהִים מְרַחֶפֶת עַל־פְּנֵי הַמָּיִם׃

「ヴェハーアーレツ ハーイター トーフー ヴァーヴォーフー ヴェホーシェフ アル・ペネー テホーム ヴェルーアッハ エローヒーム メラヘフェット 
アル・ペネー ハッマーイム」

ベレーシート

●1節の「創造した」という語彙は「無からの創造」を意味しません。なぜなら、2節にはすでに「地」(「エレツ」אֶרֶץ)、「闇」(「ホーシェフ」חֹשֶׁךְ)、「大水」(「テホーム」תְהוֹם)、「霊」(「ルーアッハ」רוּחַ)、「水」(「マイム」מַיִם)が存在しているからです。

1. 「地は・・であった」

●2節は「ヴェ・ハーアーレツ ハーイター」(וְהָאָרֶץ הָיְתָה)で始まっています。ヘブル語では、1節の「バーラー エローヒーム」(בָּרָא אֱלֹהִים)のように、動詞が先に来て、後に主語が来ます。ところが、2節の「ヴェハーアーレツ ハーイター」(וְהָאָרֶץ הָיְתָה)では、順序が逆になっています。つまり、先に主語があって、後に動詞が来ています。これは、1節の「天と地」(「ハッシャーマイム ヴェハーアーレツ」הַשָּׁמַיִם וְהָאָרֶץ)の「ハーアーレツ」(הָאָרֶץ)を特別に説明するために、あえて順序を逆にして強調しているのです。脚注1

●2節の冒頭にある接続詞「ヴェ」(וְ)は「而(しこう)して」と訳すことが可能です。「而して」とは、前の事柄を受けて説明するときの接続語です。日本語訳の聖書では訳されないのが普通ですが、英語訳ではAndとかNowが入ります。つまり、「さて、その地は・・・であった」という意味。

●「ハイター」(הָיְתָה)は、「あった」を意味する動詞「ハーヤー」(הָיָה)のQal完了3人称女性単数。なぜ女性形なのかと言えば、主語の「地」(「エレツ」אֶרֶץ)が女性形だからです。

2.「トーフー ヴァー・ヴォーフー」(תֹהוּ וָבֹהוּ)が意味すること

●「トーフー ヴァー・ヴォーフー」(תֹהוּ וָבֹהוּ)を新改訳2017では「茫漠として何もなく」と訳しています。だれも見たことのない想像を絶する「トーフー ヴァ・ヴォーフー」の世界。それゆえ、訳語も実に様々です。中沢洽樹氏はこのフレーズを「荒涼混沌」と訳しています。「荒涼たる不毛の場所」「形の無い、無秩序な混沌」とした語彙(同義語)「トーフー」(תֹּהוּ)と「ヴォーフー」(בֹהוּ)を接続詞「ヴァー」(וָ)でつないだフレーズです。文字の表記も似ています。さらに「暗やみ」「暗黒」と訳される「ホーシェフ」(חֹשֶׁךְ)も、いのちのかかわりの世界とは全く対照的な世界です。ちなみに、聖書協会共同訳は「混沌として」と訳しています。

●「トーフー」(תֹהוּ)は旧約聖書で20回、「ヴォーフー」(בֹהוּ)は3回使われていますが、「トーフー ヴァ・ヴォーフー」(תֹהוּ וָבֹהוּ)がセットとして使われているのは、創世記1章2節の他には、イザヤ書34章11節とエレミヤ書4章23節の2回のみです。そこを参照することでこの語彙のイメージをつかむことができます。

(1)【新改訳2017】エレミヤ書4章23節
私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。

●エレミヤ書4章23節以降には、エレミヤが見た神の審判の幻による「北からの大いなる災い」の警告がユダに対して繰り返し語られます。それはバビロン捕囚となって実現します。主のさばきがものすごいスピードで押し寄せ、ユダの町々が荒らされ、エルサレムも包囲され、その結果としての破局・壊滅状態としての荒廃と虚無の「トーフー・ヴァ・ヴォーフー」があります。エレミヤがユダの民の悪のゆえに、地が混沌に帰す様を直視しています。

(2) 【新改訳2017】イザヤ書 34章11節
ふくろうと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に茫漠の測り縄を張り、空虚の重りを下げる。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書34章11節後半
主はその上に虚空(こくう)の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

●イザヤ書34章は、諸国の民に対する神の究極的なさばきの宣告が語られます。その矢面に(代表として)エドムが立たせられています。エドムはヤコブの兄エサウから出た氏族の総称です。イェシュアを殺そうとしたヘロデ大王もその一人です。エドムはヤコブの子孫を憎み続け、その執念深い恨みには冷酷さがあります。詩篇137篇で「主よ 思い出してください。エルサレムの日に、『破壊せよ 破壊せよ。その基までも』と言ったエドムの子らを。」(7節)と祈っていますが、そのシオンの民の訴えのために仇を返す復讐の時が来ることを預言しています。「エルサレムの日に」とは、エルサレムがバビロンのネブカデネザルによって破壊された日のことを指しています。そしてその時、エドムはエルサレムを何度も略奪したのです。そのエドムに対する主のさばきが、イザヤ書34章9~11節に描写されています。まさにそれは「終末の天地壊滅」の混沌な死の状況を示しています。

●さらに、エドムが永遠の廃墟となるところに、レビ記11章にみられる汚れた動植物が住むとされています。荒地に住む汚れた12の動物(鳥と獣)として「ペリカン、針ねずみ、みみずく、烏、ジャッカル、だちょう、山犬、野やぎ、こうもり、蛇、とび」の名前が、汚れた植物としては3種の「いばら、いらくさ、あざみ」があげられています。そして動物の雄と雌が「連れ合い」(つがい)で住むのです。これらすべて、死のイメージであり、「やみ」(「ホーシェフ」חֹשֶׁךְ)の世界です。

●しかし、それらはむしろ、「地」が本来の機能を果たしていない状態にあることを示しています脚注2


3. 「大水」(「淵」「深淵」「原始の淵」)と訳された「テホーム」(תְהֹום)

「やみが大水の上にあった」とあります。「大水」と訳された「テホーム」(תְהֹום)は地、あるいは地下だけでなく、天の上にもあります。ノアの洪水は天にある「大水」(大いなる淵)の源(泉「メアヤーン」מְעַיָן)が裂け、天の水門(窓)が開かれて雨が降りました。

テホーム.PNG

【新改訳2017】創世記 7章11節
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた。

【新改訳2017】創世記 8章2節
大水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨がとどめられた。

天と地は「大いなる淵、大水」(「テホーム」תְהֹום)に囲まれているということになります。1章6~7節では「天(=大空)の上の水」と「天の下の水」に分けられますが、ここでは両方の大水が溢れ出しています。「テホーム」に沈むことは、神に反抗することと結びついています。「水」(「マイム」מַיִם)とは何でしょうか。それは後で触れたいと思います。

4. 「神の霊が・・・動いていた」

●「神の霊」は、四通りの意味に解釈することができます。一つは「御使いたち」だとする解釈。もう一つは、神の「知恵」だとする解釈です。さらにもう一つは「聖霊なる神」、そして最後は「激しい風(暴風)だとする解釈です。

(1) 「神の霊」は「御使い」だとする解釈

●「神の霊」(「ルーアッハ・エローヒーム」רוּחַ אֱלֹהִים)は「神の風」、あるいは「暴風」とも訳すことができます。そうすると、これは御使いたちの象徴にもなります。へブル書1章7節では「神は御使いたちを風とし」(新改訳2017)とあります。エレミヤ書51章16節にも、御使いたちのさまざまな表象が語られています。

【新改訳2017】エレミヤ書 51章16節
主の御に、天ではのざわめきが起こる。
主は地の果てからを上らせ、
のために稲妻を造り、
ご自分の倉からを出される。

●太字の部分「声、水、雲、雨、稲妻、風」は、自然現象の中に、御使いたちの存在とその働きを象徴しています。これらは神の臨在を表わすと同時に、神に仕える御使いたちの象徴でもあるのです。

●このほかにも、「燃える炎」(へブル1:7)とあり、モーセがホレブ山で「燃える柴」(燃えているのに燃え尽きない柴)の光景を見、そこから主の使いが語るのを聞いています(出エジプト3:1~6)。御使いは主に仕える霊的な存在として働いています。

●「動いている」と訳された「メラヘフェット」(מְרַחֶפֶת)は「ラーファフ」(רָחַף)の分詞で、鷲が雛の上を飛び翔ける様子を表現しています(申命記32:11参照)。そのように、神の霊(風)が大水の面の上を動き回っているのです。これは、すでに神の御使いが天と地が創造される前か、あるいは同時に造られていることが前提とされています。脚注3  この霊的な存在である御使いが、神と人が共に住む家(幕屋、神殿)に深くかかわっているのは自明の理です。

●「闇が大水の面の上にあり」と「神の霊(風)がその水の面(の上にあり)」はパラレリズムです。「闇」(「ホーシェフ」חֹשֶׁךְ)が「大水」(「テホーム」תְהֹום)の上にあるという「アル・ペネー」(עַל־פְּנֵי)は顔に面するという意味で、「闇」と「大水」は深い関わりがあることを意味しています。同じく、「神の霊(風)」も「その水」(「ハッマーイム」הַמָּיִם)の上にあって(「アル・ペネー」)、「動き回っている」「飛び回っている」「吹きまくっている」のです。

(2) 「神の霊」は「知恵」と同義だとする解釈

●「神の霊」というフレーズを検索すると旧約で23回ヒットします。創世記1章2節を除いて、最初の二つを取り上げてみると以下の箇所で使われています。

①【新改訳2017】創世記 41章38節
そこで、ファラオは家臣たちに言った。「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」

●ここで「神の霊が宿っているこのような人」というのはヨセフのことです。そしてファラオはヨセフに言います。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのような、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない」と言って彼にエジプト全土を支配させます。

②【新改訳2017】出エジプト記 31章3節
彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。

●ここでの「彼」とは幕屋を製作するウリの子「ベツァルエル」のことです。神は彼に知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たしたのです。

●ヨセフとベツェルエルが共に「神の霊」で満たされるのですが、そこに共通しているのは「知恵」(「ホフマー」חָכְמָה)ということばです。特に、ベツェルエルには神の「霊の知恵」が与えられていました(出28:3)。ヨセフには王の代理者としての支配する知恵を、そしてベツァルエルには神と人が共に住む幕屋に関するすべてのものを造る知恵が与えられています。

●したがって、「神の霊」と「知恵」とは同義だということがわかります。創世記1章2節の場合、そして神の霊としての「御使い」たちにしても、まことの「知恵」であるイェシュアにしても、その機能をいまだ発揮することなく、神の指示を待ちながら、大水の面の上を動き回っているという解釈です。そして、次の3節において、神が「闇の中から光が輝き出よ」と「光」が呼び出されたのです。

(3) 「神の霊」は「聖霊なる神」だとする解釈

●「神の霊がその水の面を動いていた」の「動いていた」はヘブル語の「ラーハフ」(רָחַף)の分詞「メラフェヘット」(מְרַחֶפֶת)です。「ラーハフ」(רָחַף)は、申命記32章11節とエレミヤ書23章9節にも使われていますが、そのうちの申命記はこうあります。

【新改訳2017】申命記32章10~11節
10 主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。
11 鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。

※10節の「彼」とは「神の民」のこと。「舞い」と訳された箇所が「ラーハフ」(רָחַף)です。口語訳は「おおっていた」と訳しています。

●創世記1章2節の「神の霊がその水の面を動いていた」とは、鷲が巣のひなの上を舞いながら、その翼でおおっているイメージです。形の定まらない、むなしい地、闇に覆われた不気味な深淵の世界、水(ここでは死と意味)の面を(正確には、「水の表面の上を」=「アル・ペネー・ハッマーイム」עַל־פְּנֵי הַמָּיִם)、聖霊なる神がそれと寄り添いながらおおっているというイメージです。つまり、「水」と「神の霊」は密接な関係にあるのです。

●「水と霊」の関係について、イェシュアはパリサイ派のニコデモとの会話で、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5~6)と言われました。つまり、ここでの「水」(「マイム」מַיִם)は母の胎内にある水と同じであり、「水」は「肉」(「バーサール」בָּשָׂר)と同義です。したがって、神のいのちの世界においては、「水」は一つの「トーフー・ヴァー・ヴォーフー」なのです。それが霊的に新しく生まれ変わることを待っている状態こそ、「神の霊がその水の面を動いていた」というフレーズに表されているのではないかと考えられます。

(4) 「神の霊」を「激しい風、暴風」とする解釈

中沢洽樹訳 創世記1章2節
「地は荒涼混沌として闇が淵をおおい、暴風が水面を吹き荒れていた」

●「霊」(「ルーアッハ」רוּחַ)を「風」と解釈し、ヘブル語最上級を表す語彙がないため、その風が最上級であることを表すために「神」(「エローヒーム」אֱלֹהִים)が用いられていると理解します。


結論として、「神の霊」は、以上のように四つの解釈が可能です。


脚注1
●神は、創造の三日目に、「乾いたところ」を「」と名付けられました。地はすでに存在していましたが、天の下の水の中に埋没していたのです。「乾いたところ」(「ハッヤバーシャー」הַיַּבָּשָׁה)が現れる歴史的出来事は、やがて「紅海徒渉」(出14:22)と「ヨルダン渡河」(ヨシュア4:22)に起こります。つまり、出エジプトの時とカナン入国の時の奇跡的な出来事において、水の中にある地(乾いた地)が現われるです。詳しくは、9~10節で扱いますが、「地」は単なる地上とか、地球とかの意味ではなく、ある特別な意味をもっているということです。

脚注2
●創世記1章1節と2節の間に「ギャップ理論」(gap theory)と言われる理論が20世紀初頭に言われるようになりました。この理論を構築する一つの要因は、ヘブル語の「トーフー ヴァ・ヴォーフー」にあります。この言葉を使っている箇所に土地の破滅という意味があると解釈しているためです。そのため、創世記1章2節の「トーフー ヴァ・ヴォーフー」も「破壊」を意味しているに違いないと主張するのです。そのために1節と2節の「ギャップ」を補うために以下の物語を挿入するのです。

●「初めに、神が天と地を創造した。そして天には争いがあった。サタンと天使の3分の1が神と神の天使に逆らって戦いを挑んだ。そしてサタンは打ち負かされた。地上へ投げ落とされた。その結果、地は、「茫漠として何もなかった。やみが大水と上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と。

●この「ギャップ理論」は再創造を必要とするものであったということです。その壊滅の原因は、イザヤ書14章3~23節、エゼキエル書8章11~19節、ヨハネの黙示録12章12節から、サタンが天から墜落したということが推定されます。さらにこの理論が出てきた支配的な要因は、20世紀初頭に登場したダーウィンの進化論や化石の記録に対して、最初の創造の破壊を仮定しないと、地球の誕生と人間の出現の間に説明できない期間が存在することになるという理由からでした。これは聖書的意図でないことは言うまでもありません。

●ギャップ理論の不要の理由は、ヨハネの福音書9章1節で、「生まれたときから目の見えない人」に対して、イェシュアの弟子たちが「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」と尋ねた時、イェシュアが「この人が罪を犯したのでも、両親でもありません。この人に神のわざが現われるためです。」と答えたことにあります。原因をさぐることではなく、むしろ神の創造がいかなるものであるかに私たちの目が向けられるべきなのです。

脚注3
●ヨブ記38章4~7節には、神の創造の過程を啓示している箇所があります。

【新改訳2017】
4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。
7 明けの星々がともに喜び歌い、神の子たちがみな喜び叫んだときに。

●ここでは、神が地の基を定めたとき(据えられたとき)、すでに「明けの星々」と「神の子たち」(=これらはいずれも御使いたちのこと)が存在していたことを物語っています。


2019.10.11

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