3章11~12節
創世記 3章 11~12節
【新改訳2017】創世記3章11~12節
11 主は言われた。
「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。」
「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
12 人は言った。
「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、
あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
【聖書協会共同訳】創世記3章11~12節
11 神は言われた。
「裸であることを誰があなたに告げたのか。
「取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか。」
12 人は答えた。
「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、
その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです。」
יא וַיֹּאמֶר מִי הִגִּיד לְךָ כִּי עֵירֹם אָתָּה הֲמִן־הָעֵץ אֲשֶׁר צִוִּיתִיךָ לְבִלְתִּי אֲכָל־מִמֶּנּוּ אָכָלְתָּ׃
יב וַיֹּאמֶר הָאָדָם הָאִשָּׁה אֲשֶׁר נָתַתָּה עִמָּדִי הִוא נָתְנָה־לִּי מִן־הָעֵץ וָאֹכֵל׃
ベレーシート
●11~12節は、神である主の第二、第三の問い掛けがなされています。それに対して、人が答えています。
1. 主の第二の問い掛け
●神の問い掛けの第一は、「あなたはどこにいるのか」でした。それは単に場所を尋ねているのではなく、より深い意味で「あなたがいるべきところはどこか」を考えさせ、思い起こすことを願ってのことでした。11節の第二の問い掛けはどういう意味でしょうか。原文直訳するとこうです。「だれがあなたに告げたのか。あなたが裸であることを。」と。この問いも実に不思議な問いです。というのは、これはきわめて預言的な問いかけだからです。「あなたはなぜ裸であることを知ったのか」ではなく、「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか」と問うているからです。
●答えは、主ご自身なのです。でも、このことに人はなかなか気づきません。第一の問いかけでもそうであったように、第二の問いかけの意味も理解できないのです。なぜなら、人が肉の目で見ている「裸」と、神の目で見ている「裸」とが異なっているからです。
【新改訳2017】ヘブル人への手紙4章13節
神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
●ですから、対話がかみ合わないのです。ここに罪の現実があります。この問いは救いの歴史の中で絶えず問い続けられていくのです。「裸である」(「エーローム」עֲירֹם)」という語彙がエゼキエル書16章に3回登場しています(7, 22, 39節)。
①【新改訳2017】7節
わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。あなたは成長して大きくなり、十分に成熟して、乳房はふくらみ、髪も伸びた。しかし、あなたは丸裸であった。
②【新改訳2017】22節
あらゆる忌み嫌うべきことや姦淫をしているとき、あなたは、かつて自分が丸裸のまま、血の中でもがいていた若いころのことを思い出さなかった。
③【新改訳2017】39節
わたしはあなたを彼らの手に委ねる。彼らはあなたの祭儀台を壊し、高台を打ち壊し、あなたの着ている物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取り、あなたを丸裸にしておく。※エルサレムは主の祝福によって美しさと堅固さをまとったにもかかわらず、いつの間にかそのことを忘れ、あたかもそれが自分の力によってなしえたかのように思い始めました。つまり、自分の名声を保とうと、その体裁を保持するために、エルサレムいる王たちは他の諸国(特に、エジプト、アッシリヤ、バビロンといった大国)と同盟関係を結ぶ政策を取ったのです。このことが聖書のいう霊的な「姦淫」です。そのために、エルサレムは自分がかつて「丸裸であった」ことを忘れたのです。
【新改訳2017】ヨハネの黙示録3章14~18節
14 また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。
15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。
17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。
●「ラオディキア」(Λαοδίκεια)とは、「民」を意味する「ラオス」(λαος)、それに「義」を意味する「ディカイオス」(δίκαιος)の合成語です。「ラオティキア」の教会はまさに「義なる民の教会」という意味なのですが、その「義」は自分の義であって、「自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もない」と自分たちがそう思っているだけです。しかし実は「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」のです。これを語っているのは「『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方」、つまり、主ご自身です。しかも、その主が、「あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買いなさい」と忠告しているのです。「自分の義の行ないに立っている教会」の姿は、パリサイ人、律法学者たちのように自分の義(行い)をまとうものでもあり、最初の人アダムそのものなのです。
2. 神の第三の問い掛け
●第三の神の問い掛けは「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」でした。この問い掛けに対して、人は答えています。答えは「はい」と言えばいいところを、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と答えています。これは言い逃れであり、責任転嫁です。「この女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」という何とも情けない話ですが、信仰の父と言われるアブラムとその妻サライにも同じことが起こっているのです。
3. 創世記16章の出来事
●創世記16章全体を思い起こしたいと思いますが、「牧師の書斎」にあるを参照してください。神の約束を信じることができなかったサライは、自分の考えで、夫アブラムに女奴隷のハガルを与えます。そのことでイシュマエルが生まれます。ところが、ハガルは自分の女主人であるサライに対して横柄な態度を取るようになるのです。
4. この出来事におけるパウロのアレゴリー的解釈
●創世記16章の話から、使徒パウロは以下のようにアレゴリー的解釈をしています。
【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章22~26節
22 アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。
23 女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。
24 ここには比喩的な意味(ἀλληγορέω)があります。この女たちは二つの契約を表しています。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。
25 このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっているからです。
26 しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。
●アブラハムをアダムに、サラをエバに、そして「善悪の知識の木の実」をハガルとその子どもに当てはめてみてください。ここでパウロは語っていることは実は驚くべきことです。パウロはガラテヤ人の手紙において、真の福音を空洞化する律法主義(=外なる人)をことごとく糾弾しています。かつてパウロ(サウロと言われていた当時)は、まさに律法主義のただ中に生きていた人物でした。そのパウロがこの手紙の中で次のように述べています。
【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章13~14節
1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。
●ところが、その彼がダマスコ途上でイェシュアと出会ったのです(使徒9章)。その結果、彼の目は盲目となり、三日目に「目から鱗のようなものが落ち」、霊的な目が開かれ、イェシュアこそメシアてあると確信できたのです。使徒としてのパウロの新しい誕生です。それ以来、彼はイェシュアがメシアであることを、聖書を通して論証し、律法の行いではなく、信仰によって救われることを宣べ伝えたのです。ガラテヤ教会もその宣教によって建てられました。ところが、エルサレムから来た者たちが律法主義によって行いによる救いを説き、教会にいる人々を惑わしたことで、この手紙が書かれたのです。
●その手紙の中で、アブラハムの二人の妻サラとハガルの話をアレゴリー的に解釈しているのです。その解釈よれば、「ハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります(=神殿を中心とするユダヤ教)。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷(=罪と死のトーラー、文字の教え)となっているからです。しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母(=約束によってもたらされたの福音)です」と述べているのです。
●ハガルが今のエルサレムで、サラを上にあるエルサレムとして示すだけでなく、断言しています。
【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章28~31節
28 兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
29 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています。
30 しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」
4:31 こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。
●ハガルとその子どもとは律法主義(=外なる人)の型と言えます。これを教会から追い出すべきだとパウロは主張しているのです。
2020.6.23
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