「わたしを仰ぎ見て救われよ。」
37. 「わたしを仰ぎ見て救われよ。」
【聖書箇所】45章1~25節
ベレーシート
- イザヤ書44章では、イスラエルに対して神が「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(22節)にスポットを当てましたが、45章では、イスラエルを含めた地の果てのすべての者に対して語られた「わたしを仰ぎ見て救われよ。」というフレーズと、「わたしが神である。ほかにはいない。」(いずれも22節)という神の唯一性の自己宣言にスポットを当てたいと思います。
- 45章ではイスラエルを中心として、ペルシャの王となるクロス、エジプト・クシュ・セバ人、諸国からの逃亡者たち、そして地の果てのすべての者たちに、それぞれに対して、「わたしが神である。ほかにはいない。」という唯一性(唯一無比)の自己宣言がなされていることが特徴です。
1. クロスに対する神の御旨【主】の唯一性の自己宣言
- クロスに対する主のことばは、実は2節から始まっています。新改訳は1節の「わたしは彼の右の手を握り・・・」というところから括弧で括っていますが、原文では、1節はクロスに対する神の主権的なかかわりとその目的が記されています。つまり、「油そそがれた者」を詳しく説明する部分が関係代名詞(ヘブル語の「アシェル」)以降に記されている構文となっています。したがって、2節以降から主がクロスに直接的に「あなた」と呼びかけ、語られているのです。
- その内容の要点は以下の通りです。
(1) 主がクロスの征服の道を整える
【新改訳改訂第3版】イザヤ書45章2~5節、13節
2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
3 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。
4 ・・・わたしはあなたに肩書を与える。
5 ・・・わたしはあなたに力を帯びさせる。13・・・わたしは勝利のうちに彼を奮い立たせ、彼の道をみな、平らにする。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、わいろによってでもない。・・・
●ここには、クロスの前の一切の障害となるものをすべて主が取り除かれること、そのために主がクロスに肩書きを与え、力を帯びさせることが約束されています。
(2) クロスを起こした三つの目的
①クロス自身が、イスラエルの神、主を知るため
3節 「それは、わたしが【主】であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」
②イスラエルの救いのため
4節「わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために」
③全世界が、イスラエルの神、主の他には神がいないことを知るため
6節「それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。」
2. 【主】の唯一性の自己宣言の定式
- 45章では主の唯一性の自己宣言が繰り返されています。その定式は「わたしは主、ほかにはいない。」「アニー・アドナイ・ヴェーン・オード」というものです(5節、6節、18節、21節)。
- 「主」(יהוה)のところが、「神」(「エール」אֵל)になっている箇所(22節)もあります。定式の前半の部分である「アニー・アドナイ」だけの使用は、出エジプト記に5回(7:5, 17/10:2/14:4, 18)見られますが、イザヤ書では3回(45:3/49:23, 26)のみです。「わたしは主、ほかにはいない。」の自己宣言定式は45章特有のものです。イスラエルの神を唯一の真の神として普遍的に認識させることが、クロスの召しの究極の目的であることを強調しているのです。
3. イザヤ書45章の主の命令ー「わたしを仰ぎ見て救われよ。」
- イザヤ書44章では、主がイスラエルの民に対して「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」という主の命令に注目しましたが、ここ45章では、「わたしが神である。ほかにはいない。」(22節)という唯一無比性の自己宣言と結びついて語られている、地の果てのすべての者(異邦人)に対する主の命令に注目したいと思います。
【新改訳改訂3】 イザヤ書45章22節
わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。
【新共同訳】
わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。
【口語訳】
わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。
【岩波訳】
わたしの方を振り仰いで、救われよ。・・まことに、わたしが神である。他にはいない。
【フランシスコ会訳】
わたしの方に向きを変えよ。そうすれば救われる。まことに、わたしが神である。他にはいない。
【中沢洽樹訳】
わが方を向け、・・救われんため。
【関根訳】
ふり仰いでわたしを見、救いを得よ、わたしは神で、ほかにはないから。
【バルバロ訳】
私に向きなおれば救われる。・・私は主である。私のほかに神はない。
- 原文は以下の通りです。
- 「ペヌー」(פְּנוּ)は動詞「パーナー」(פָּנָה)の男性2人称複数命令形です。「パーナー」の意味は「向く」「向ける」の意です。ヤコブが夜明けまである人と格闘したその場所を「ペヌエル」(「ペヌーエール」פְּנוּאֵל)と呼びましたが、その意味は「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味であることを聖書自身が注解しています(創世記32:30)。ちなみに、名詞の「パーニーム」(פָּנִים)は「顔」を意味します。
- アダムが罪を犯した後に、主の呼びかける声を聞いたとき、彼とその妻は「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)とあります。しかし神の救いの最終ステージである神と人が共に住むことになる「聖なる都」である「新しいエルサレム」においては、「神の御顔を仰ぎ見る」(黙示録22:4)ようになるのです。これが救いであり、救われることなのです。ちなみに、イザヤ書44章22節「わたしに帰れ」の「シューヴァー(שׁוּבָה)・エーライ(אֵלַי)」も同様の意味合いと考えることができます。なぜなら、神の方に向きを変えること、つまり「立ち返る」ことが救われることになるからです。
- ちなみに、45章22節で「救われよ」「救いを得よ」と訳された原語は「ヤーシャア」(יָשַׁע)の男性複数2人称受動態の命令形です。つまり「あなたがたは救われよ」なのです。しかし、いくつかの訳(口語訳、フランシスコ会訳、バルバロ訳)では、あたかも未完了のように訳しています。
2014.10.14
a:6762 t:2 y:2