エルサレムの現状を聞いたネヘミヤの祈り
ネヘミヤ記の目次
1. エルサレムの現状を聞いたネヘミヤの祈り
【聖書箇所】 1章1節~11節
ベレーシート
- 神の事業に携わった人物の召命と動機を学ぶことは、私たちにとって極めて重要です。特に、指導的立場に立っている者はなおさらのことです。なぜなら、すべての神の事業は、私たち人間の野心や意志が砕かれて、神のみこころと一致したものでなければならないからです。
- ネヘミヤのプロフィールを簡単にまとめると、以下の通り。
(1) ペルシアの王アルタシャスタの献酌官(信用されていることを示します)で、シュシャンの城にいた。シュシャンはかつてエルムの首都であり、ペルシア支配になってから、冬の宮殿が建てられ、王は冬をそこで過ごしたようです。
(2) エルサレムの城壁の再建を果たした人物
(3) 祭司であり、律法学者であったエズラと同時代の者であり、共に神の民の再建に取り組みました。
1. すべては「座す」ことからはじまる
- ネヘミヤがエルサレムの現状を自分の兄弟(あるいは親類)から聞かされたところから、ネヘミヤ記は始まります。ここで、特徴的なキーワードは、彼がエルサレムの現状を聞かされた時、「すわって泣いた」ということです。
- 一見、注目されないようなフレーズですが、右の図のように、神の事業にかかわる者たちは、実は、この「座る」ということから始まるのです。すぐに「立ち」上ることでもなく、「歩く」(実行する)ことでもあれません。まずは「座る」ことが優先すべきことなのです。この「座る」の原語は「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)で、主の前に座る、主にとどまる、主の家に住まう、腰を据えることを意味します。ダビデ王の「ただひとつの願い」(One Thing)は「主の家に住まい、主の麗しさを仰ぎ見る」ことでした。それが彼のすべての源泉でした。ダビデの「ヤーシュブ」についてはこちらを参照のこと。
2. 聖なる涙、聖なる嘆き悲しみ
- 「座る」ことは、ダビデのように主を慕い求めることですが、今回のネヘミヤのように、主の御名が謗られていることを泣き悲しむために「座る」こともあるのです。ネヘミヤ記1章では、彼が「座って」、「泣いた」こと、そして「喪に服した」ことが記されています。ここでの「喪に服す」とは「非常な悲しみ」を表すことばが使われています。
【新改訳改訂第3版】1章4節
私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、【口語訳】
わたしはこれらの言葉を聞いた時、すわって泣き、数日のあいだ嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈って、【新共同訳】
これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。
- ここには「泣く」という動詞「バーハー」(בָּכָה)と、「嘆き悲しむ」という動詞「アーヴァル」(אָבַל)が使われています。主の御名がそしられていることに対する悲しみなくして、神の働きを担うことはできないのです。
(1) 「バーハー」(בָּכָה)
- 「バーハー」は旧約で114回使われています。「泣く」「(死人のために)涙を流す」「(主の前で、悔いて)泣く」という意味ですが、ここでは最後の意味で使われています。エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記に限ってみてみると、以下の箇所に使われています。
①エズラ記ー3回(3:12/10:1, 1)
3章12節では完成した神殿を見て、民たちがさまざまに複雑な意味で「泣いています」。10章1, 1節では、神への不信の罪を犯し、異邦の女を妻として娶ったことに対して、しかも指導者たちが率先してしたことに対して泣いているエズラの姿があります。②ネヘミヤ記-3回(1:4/8:9, 9)
1章4節ではエルサレムの現状を知らされたことで。8章9節では城壁が完成した後で、エズラが民を集めて神の律法(トーラー)を朗読させたとき、人々はそれをは聞いて罪を示され、心を刺されて泣いたのでした。しかしエズラは主を喜ぶことはあなたがたの力であると呼びかけました。③エステル記ー1回(8:3)
ユダヤ人撲滅を謀ったハマンは殺されましたが、ハマンが全国に書き送ったユダヤ人撲滅の書簡はそのままであったため、エステル妃は王の足もとにひれ伏して、「泣きながら」、ハマンが全国に送ったたくらみの書簡を取り消すよう嘆願しています。
(2) 「アーヴァル」(אָבַל)
- 「アーヴァル」は「嘆き悲しむ」「泣き悲しむ」「慟哭する」の意です。その多くは強意形のヒットパエル態が使われています。旧約では39回の使用頻度です。エズラ記10章で、エズラが民の不信の罪で「泣き悲しんで」いました。ヤコブが最愛の息子ヨセフが死んた聞いて「悲しんだ」という動詞も、この「アーブァル」のヒットパエル態です。
2. ネヘミヤの献身の思いを秘めた祈り
- ネヘミヤり祈りが4~11節まで及んでいますが、その間、イスラエルの罪を自分の罪として告白し、神の契約によりすがって祈っています。そうした祈りと同時に、ネヘミヤの祈りの最後のことば(11節)に注目したいと思います。
【新改訳改訂第3版】
「・・どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」
【口語訳】
「・・どうぞ、きょう、しもべを恵み、この人の目の前であわれみを得させてください」。
【新共同訳】
「・・どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」
- 上記の11節で「この人」というのは、ネヘミヤが仕えているアルタシロャスタ王です。献酌官としてネヘミヤは王からの絶大な信用を得ていました。ちなみに、ダニエル、エズラ、エステル、そしてネヘミヤも、同様に、異邦の王から絶大な信任を得ています。これは尋常とは言えない不思議なことです。
- ところで、このネヘミヤの祈りには深い意味が隠されています。それは第一に、自分の心の中に「聖なる志」が与えられていることを示しています。その「聖なる志」とは、主と王の許可が与えられるならば、そしりとなっているエルサレムの城壁を再建したいという思いです。しかしこの城壁再建事業は彼一人でできることではありません。まず、王の許可が必要です。また再建事業に必要なものが備えられなければなりません。また、エルサレムにいる同胞たちへの動機づけと協力が不可欠です。これらのどの一つが欠けても。城壁の再建は不可能です。果たしてネヘミヤに与えられた志が実現するか否か、ひとえに神ご自身の導きにかかっていたのです。
- 不思議なことに、エズラ記もそうでしたが、ネヘミヤ記においても、神ご自身が直接的に語りかけるということがありません。なぜないのでしょうか。エステル記に至っては「神」ということばさえないのです。神は沈黙しておられますが、神はエズラやネヘミヤ、そしてエステルの祈りを聞いてそれに応えておられるのです。神の一方的な「恵みの御手」が働いているのです。
2013.10.25
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