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天地創造以前からあった知恵(1)ー箴言の最高峰ー

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

18. 天地創造以前からあった知恵(1)ー箴言の最高峰ー

【聖書箇所】8章22〜27節

ベレーシート

  • 8章12節で「アニー・ホフマー」(אֲנִי־חָכְמָה)と宣言したその「わたし」は、22〜27節では天地創造の前からいると宣言しています。つまり、知恵の先在性について語られています。使徒パウロはそのことがきわめて重要なことであるとして、次のように語っています。「私たちの語るのは隠された奥義としての神の知恵であって、それは神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前からあらかじめ定められていたもの」だと。ここにパウロの視座(=物事を考える座標軸のこと)を見ることができます。
  • 神の知恵は私たちの目に見えないものですが、パウロは次のように述べています。

    【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント 4章18節
    私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

  • パウロの関心は常に「見えないものにこそ目を留める」ことでした。「見えないものにこそ」の「こそ」という表現で強調されています。なぜなら、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」とパウロは確信していたからです。そのような視点で捉えることは御霊の助けによってのみ可能です。それゆえ、神の御霊を受けた私たちも、御霊の助けをとおして「目に見えないもの」を理解することができるのです。

1. 知恵の先在性、起源について

【新改訳改訂第3版】箴言8章22〜27節
22 【主】は、その働きを始める前から、
そのみわざの初めから、わたしを得ておられた
23 大昔から、初めから、大地の始まりから、
わたしは立てられた
24 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、
わたしはすでに生まれていた
25 山が立てられる前に、丘より先に、
わたしはすでに生まれていた。
26 神がまだ地も野原も、
この世の最初のちりも造られなかったときに。
27 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、
わたしはそこにいた。

  • ここにあるように、創世記1章1節以前に、すでに「知恵であるわたし」はいたのです。どのようなあり方で存在していたのでしょうか。ヨハネは知恵の存在を「ことば」と表現していますが、「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」と福音書の冒頭に記しています。「ことばは神とともにあった」の「ともに」というあり方は、ギリシア語の前置詞「プロス」(προς)が示すように、「お互いに向かい合って、永遠に信頼しているかかわり」です。御父と御子とは永遠に顔と顔が向き合っている存在なのです。後に、そのかかわりに似せて人が造られることになりますが、それを「目に見える」かたちにしたのが「男と女」の創造です。神と人とのかかわりにおいても、その本来の姿は「顔と顔とを合わせた」かかわりなのですが、その根源は御父と御子とのかかわりにあります。すべてのことはそこから始まっていくのです。
  • 「お互いに向かい合って、永遠に信頼しているかかわり」のことを、イェシュアは十字架にかかる前日、「あの栄光」ということばで表現しています。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書17章5節
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

  • 天と地が創造される前に、御父と御子との間でどんな話し合いがなされていたのでしょうか。ことばにすると浅っぽくなってしまいますが、それをあえてことばにしてみるならば、以下のような会話(クリック)がなされていたかもしれません(あくまでも想像ですが)。

2. 知恵の「先在性」の諸相

  • 22, 23, 24節では、知恵の起源(先在性)を表わす三つの動詞が使われています。

(1) 【主】は、わたしを得ておられた

  • 22節「 【主】は、その働きを始める前から、
    そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。」
  • 「得る」と訳されているのは新改訳のみで、その原語は「カーナー」(קָנָה)という動詞です。本来は「買う、手に入れる」という意味で約80回ほど用いられています。同時にこの「カーナー」には「創造する」という意味もあり、旧約では4回使われています(創世記14:19, 22/申命記32:6/詩篇139:13)。口語訳と新共同訳は箴言8章22節の「知恵」を「造られた」としています。しかし、新改訳は「得ておられた」と訳し、バルバロ訳は「有しておられた」として、「造られた」ということばを避ける訳にして、「知恵」が造られたものではないことを表明しています。
  • なにゆえに「バーラー」(בָּרָא)ではなく、「アーサー」(עָשָׂה)でもなく、「カーナー」(קָנָה)なのでしょうか。謎です。謎というのは、「知恵」が指し示しているキリストが神によって造られたものではないからです。LXX訳が「創られた」を意味する「クティゾー」(κτίζω)という訳語を用いたことで、アレクサンドリアの司祭アリウス(Arius、250年~336年)がこの語彙にこだわり、それを根拠にしてイエス・キリストの神性を否定し、御子は神に造られた者だと主張しました。後のニカイア公会議において、アリウスの主張は異端として退けています。
  • 使徒パウロはコロサイ人への手紙1章で「御子」について、以下のように述べています。

【新改訳改訂第3版】コロサイ人への手紙1章15~17節
15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。


(2) わたしは立てられた

  • 「立てられた」と訳された動詞は「ナーサフ」(נָסַךְ)で、油を注がれて聖別されることを意味します。新共同訳はここを「祝別されていた」と訳しています。新改訳がここを「立てられた」と訳したのは、詩篇2篇6節「わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに」の箇所で同じ動詞が使われているからだと考えられます。「わたしによって立てられた」「わたしの王」は「わたしの働きをする」油注がれた者です。つまり、「任命された」ということです。何に任命されたのかと言えば、30節にある「組み立てる者」に(口語訳は「名匠として」)です。

(3) わたしはすでに生まれていた

  • 「生まれていた」と訳された動詞は「ヒール」(חִיל)の強意形の受動態です。その強意のニュアンスを出すために新共同訳は「生み出されていた」と訳しています。驚くべきことに、「知恵」は、創世記1章2節にある「深淵」(「テホーム」תְּהוֹם)が存在する前から、地もなく、この世の最初のちりも造られていなかったときにすでに存在していたことが強調されています。


2015.12.1


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