****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

生きる

聖餐のための瞑想(6) 「 生きる」

ベレーシート

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書6章57~58節
57 生ける(※1)父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きている(※2)ように、わたしを食べる者も、わたしによって生きる(※3)のです。
58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます(※4)。」


【文法情報】
●「生きる」を意味する四つの「動詞」(「ザオー」ζάω)。
※1・・現在形分詞単数(「ホ・ゾーン」ὁ ζῶν)、分詞は動詞を名詞化したもの。
※2・・現在形1人称単数(「ゾー」ζῶ)、
※3・・未来形3人称単数(「ゼーセイ」ζήσει)
※4・・未来形3人称単数(「ゼーセイ」ζήσει)
●ギリシア語の「ザオー」に相当するヘブル語は「ハーヤー」(חָיָה)、名詞は「ハッヤー」(חַיָּה)、その複数形は「ハッイーム」(חַיִּים)。形容詞は「ハイ」(חַי)。
●ちなみに、動詞「ハーヤー」(חַיָּה)の初出箇所は創世記3章22節で、「永遠に生きないように」(新改訳)、「永遠に生きる者となる恐れがある」(新共同訳)とあります。善悪の知識の木から取って食べた者はすでに死んだ者です。その死んだ者がいのちの木から勝手に取って食べて永遠に生きることがないように、神は最初の人(アダムとエバ)をエデンの園から追い出しました。死んだ者は神の手続きによらなければ、永遠のいのちにあずかることはできないからです。
●「生きる」と訳される動詞「ザオー」(ζάω)は新約聖書での使用頻度数は141回。そのうちヨハネの福音書は17回(4:10, 11, 50, 51, 53/5:25/6:51, 51, 57, 57, 57, 58/7:38/11:25, 26/14:19, 19)使われています。


1. イェシュアの「おかげで」生きることができる

  • 6章57節で、「わたしが父によって生きている」とか、「わたしによって生きる」にある「~によって」と訳されたギリシア語の「ディア」(διά)は、「~のおかげで」と訳すことができます。つまり、私たちはイェシュアのおかげで生きることができるのです。私たちも何か良いことがあると、人に「おかげさまで」と言うことがありますが、そのニュアンスとは異なります。日本語の「おかげさま」の「お陰様」は、特に相手の恩恵を受けていなくても,漠然とした感謝の気持ちを表す挨拶用語です。しかしここでイェシュアが言っていることは、明確な事実に基づいています。その事実とは、イェシュアが御父にとどまっているように、私たちもイェシュアにとどまっていない限り、生きることはできないのです。つまり、私たちが「生きる」ことができるのは、イェシュアのお陰様なのです。この方こそ、私たちに「生ける水」や「生けるパン」を与えることができるのです。

2. イェシュアこそ「よみがえり」「いのち」です

  • イェシュアが私たちに「生ける水」や「生けるパン」を与えることができるのは、イェシュアが「わたしは、よみがえりです。いのち」(ヨハネ11;25)だからです。
  • ちなみに、ここの「よみがえり」と訳された語をヘブル語にすると「ハットハッヤー」(הַתְּחַיָּה)で、「ハーヤー」(חָיה)のヒットパエル態の分詞です。「いのち」は冠詞付の「ハハッイーム」(הַחַיִּים)。「生きる」と訳された動詞は「ハーヤー」(חָיה)の未完了形3人称単数形「イフイェ」(יִחְיֶה)です。
  • イェシュアはその公生涯において、あらゆる病気をいやし、死んだ者(死にそうな者)を「直し」ました。それはやがて「終わりの日」が来たならば、そうしたことがただちに起こるということのデモンストレーションだったのです。イェシュアが再び来られる時には、朽ちることのない新しいからだが与えられてよみがえます。ですから、たとえイェシュアを信じていたとしても、病気がなおらず、あるいは死んだとしても、心配するには及びません。病気がいやされなかったり、あるいは死んだとしても、決して信仰が弱いからではありません。なぜなら、時が来れば、イェシュアを信じる者はたとえ死んでいたとしても「生きる」のですから。
  • 以下のみことばを心に留めておきましょう。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書4章49~51節
49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。


●ここではおそらく「死にかけていた」ので、イェシュアは「直っている」と言われたと考えられます。もし「死んでいた」とすれば、イェシュアは「生きています」、あるいは、「眠っているだけです」と言われたのではないかと思います。


【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書5章25節
25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。


●イェシュアの声を聞いて信じる者は、「終わりの日」に起こることが信仰によって先取りされて、「生きる」と確約されているのです。この信仰は「神の賜物」です。


  • 聖餐にあずかる目的は、私たちがイェシュアによって永遠に生きるためなのです。

2017.10.7


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