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とどまる

聖餐のための瞑想(5) 「とどまる」

ベレーシート

【新改訳改訂第3版】 ヨハネの福音書6章56節
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります


●「とどまる」はいずれもギリシア語の「メノー」の現在形で「とどまり続ける」の意。「とどまる」は「メノー」(μένω)、英語では、abide, remain, dwell, continue
●「とどまる」(μένω)は、きわめて深い関係性を表わす語彙です。旧約聖書でこの関係性を表わしている箇所を挙げるとすれば、詩篇15篇1節と詩篇91篇1節です。いずれも、同義的パラレリズムで記されています。

(1) 【新改訳改訂第3版】詩篇15篇1節
【主】よ。だれが、あなたの幕屋に宿る(「グール」גּוּר)のでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住む(「シャーハン」שָׁכַן)のでしょうか。

(2) 【新改訳改訂第3版】詩篇91篇1節
いと高き方の隠れ場に住む(「ヤーシャヴ」יָשַׁב)者は、全能者の陰に宿る(「リーン」לִין)。

●順に、「宿る」(「グール」)、「住む」(「シャーハン」)、「住む」(「ヤーシャヴ」)、「宿る」(「リーン」)。これらはみな同義語と見なすことができます。そして、これらヘブル語の語彙がギリシア語の「メノー」(μένω)の中に含まれていると言えます。


  • 「とどまる」ことについて、その重要性をイェシュアは最後の晩餐の時に語られました。その教えのことばを引用したいと思います。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書15章4~10節
4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい
10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。


1. イェシュアにとどまることで多くの実を結ぶ

  • 聖餐において、イェシュアの肉を食べ、イェシュアの血を飲む者は、イェシュアのうちに「とどまり」、イェシュアも「彼のうちにとどまります。」(ヨハネ6:56)とあります。ところが、この相互的な「とどまる」ということがどういうことかを理解することは容易ではないのです。
  • 霊性の大家アンドリュー・マーレーは「キリストにとどまる」という本の中でこのテーマについて31回分の瞑想をしています。つまりそれだけの内容が含まれているということです。
  • 「とどまる」(新共同訳は「つながる」と訳しています)と訳された「メノー」(μενω)は、ヨハネの福音書15章だけでも10回使われています。「わたしにとどまりなさい」「わたしのことばにとどまりなさい」「わたしの愛の中にとどまりなさい」と表現を変えながら、その「とどまりの様態」を表現しています。いずれにしても、「とどまり、とどまる」というかかわりがあるならば、実を結ぶことができます。しかしこのかかわりがなければ、決して実を結ぶことはできません。イェシュアを離れては、私たちは何もすることができないからです(15:5)。
  • イェシュアの言われる「実」とは何でしょうか。ヨハネの福音書14章で語られている「平安」もその実の一つです。15章11節では「喜び」、15章12節では「愛」がそれに加わります。それらはいずれも神の祝福の総称を意味する「シャーローム」(שָׁלוֹם)の側面と言えます。
  • それらは、地上に咲いたキノコのようです。キノコは地下で縦横に張り巡らしている菌糸のがもたらした花です。一つのキノコ(花)が咲くところには、その下には目に見えない無数の菌糸が存在しているのです。一輪の愛の花を、一輪の喜びの花を、一輪の平和の花を咲かせるにも、「キリストにとどまる」隠れた日々の歩みが不可欠です。主は私たちに多くの実を結ばせたいと願っておられます。それゆえ、「わたしにとどまりなさい」という主の招きの声をしっかりと心に刻み、私が主のうちにとどまり、主も私のうちにとどまるという、御父と御子に見られた歩みをさせていただきたいと思います。その新たな気づきを与えられるのも「聖餐」の恵みと言えます。

2. 「御父」と「御子」とうちに、とどまることの源泉を見ること

  • 「とどまる」ということがどういう生き方なのかを知るためのヒントとなる知恵は、旧約聖書の中に散りばめられています。その中の一つとして、詩篇91篇1節の「全能者の陰に宿る」ということを考えてみることは有益です。「宿る」と訳された「リーン」(לִין)の語彙が意味することは、「全能者の陰」とあるように、それは「隠された場」で、いつも一緒に過ごす''};ということです。
  • 「隠れたところ」とは「シークレット・プレイス」(secret place)で、「宿る」とは神とともに過ごすことです。イェシュアが12歳の頃、祭りのためにエルサレムで両親とはぐれてしまいました。その両親に対してイェシュアはこう言われました。「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)と。あいにく両親にはこのイェシュアの語られたことばの意味を理解できなかったようです。「シークレット・プレイス」は力の源泉となる場です。そこに自覚的に身を置くことが「宿る」(「リーン」לִין)が意味することなのです。この「宿る」ことこそ、イェシュアの言う「とどまる」という意味なのです。それゆえ、神殿で教師たちの真ん中にすわって問答しておられるイェシュアの姿を見た人々は、イェシュアの知恵と答えに驚いていたとあります(ルカ2:47)。イェシュアの両親も息子を見て驚きました。
  • この「驚き」は、人々の場合と両親の場合には異なる語彙が使われています。人々の場合には「エクシステーミ」(εξιστημι)が使われ、甚だしく驚く、驚きに打たれる、驚愕する、気が狂うという意味です。両親の場合には「エクプレーッソー」(εκπλησσω)という語彙が使われていますが、「びっくりする、驚愕する、仰天する、(たまげて)唖然となる」という意味です。このイェシュアの姿が「全能者の陰に宿る」者の姿なのです。
  • イェシュアはそのような御父とのかかわりを保ちつつ、18年間隠れた生活をして後、公生涯に入られたのです。このことを思う時、「とどまる」ことの秘密がただ事ではないことが分かります。そのような生活への招きが「聖餐」ごとになされているとするならば、何と私たちは疎い者かと思わされます。新しい気づきが与えられる「聖餐」がなされるようにと祈りたいものです。

2017.10.6


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