瞑想Ps43/A
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瞑想Ps43/A
- この詩篇は、前篇である42篇と結びつけて一つとなっている場合もあります。それは双方の詩篇に同じリフレーン(繰りかえされる句、あるいはコーラス)があるからです。共通していることは、神への渇きです。しかしその渇きは具体性をもっています。つまり、もう一度、エルサレムにおいて、シオンの聖なる山において、喜びの源泉である神を礼拝したいという渇きです。もう一度、シオンに帰還させてほしいという願いと、神を賛美したいという願いをもって神を待ち望んでいるのがこの詩篇の特徴です。
- したがって、詩43篇のキー・ワードは3節の嘆願にあると信じます。「どうか、・・・あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かって、・・・私を連れて行きますように。」(新改訳) LB訳では「どうか、・・・きよいシオンの山にある神の宮へと導いてください。」となっています。bring me back to Zion シオンに帰還し、そこで神の臨在を楽しむこと、これが具体的な作者の神への渇きです。
- バビロンの捕囚の地にあって、神の民の中にこうした渇きが起こってくることを神は願っていたはずです。この渇きを起させるために、神は作者を一時「拒まれ」(新改訳)、「突き放され」(LB訳)、「見放され」(新共同訳)、「捨てられ」(口語訳)たのかもしれません。神に対する強烈な飢え渇きなしには、詩1篇にあるように、神のみことばを昼も夜も口ずさむといったライフスタイルは生まれなかったに違いありません。そして、神のみことばがなんと甘いものであるかということも知らなかったはずです。シオンを慕い求める者たち(シオニスト)の存在もなかったといえます。再起への希求、それはシオンへの熱いあこがれであり、飽くなき飢え渇きをもって神を礼拝することなのです。
- イエスは飢え渇いていたサマリヤの女性に言われました。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネの福音書4章23節)と。
- いつでも、どこでも、神は真の礼拝者を求めておられるということです。「霊とまことによって神を礼拝する飢え渇きがもっと与えられるように、神を知りたいという飽くなき飢え渇きをもって、神を追い求める者となりたいのです。」と祈ります。