礼拝用語Ps43
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詩43篇「待ち望む」 יָחַל ヤーハル
〔カテゴリー待望〕
5節「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」
Keyword; 「待ち望む」 hope, put hope, give hope
31:24/33:18,22/38:15/39:7/42:5,11/43:5/69:3/71:14/119:43,49,74, 81,114,147/130:5, 7/131:3/147:11
- 詩42篇と詩43篇は、同じリフレイン(反復句)を持つために、もともと一つの詩篇だと言われています。そのリフレインとは以下の句です。「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で(岩波訳では「私のことで」) (※) 思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」
- (※新改訳第二版では「なぜ、御前で思い乱れているのか」と訳されていますが、第三版では「私の前で」と改訳されています。アル(עַל)は、upon, on, above, over, beside, near, before, towards, against, within, from, because, by・・など、前置詞のすべてを含んでいるような意。)
- リフレインでは、詩篇の作者がもう一人の自分―「うなだれ」「思い乱れている」自分―に向って呼びかけています。「うなだれ」とはcast down頭を垂れ、意気消沈している、失望落胆している状態を表し、「思い乱れている」とはwoamうめき、嘆いている状態です。そんなたましいに対して、「神を待ち望め。私はなおも主をほめたたえる。」と告白しています。「ほめたたえる」と訳された原語「ヤーダー」(יָדָה)は、賛美する、感謝する、公に告白するという意味です。しかも「なおも」(「オード」עוֹד)とは、現実の事態に反しても神がすべてのことにおいて「いつくしみ深い方」だと信じ続けていく決意の表現です。
- 詩篇瞑想の目的のひとつは、自分が自分に向って励ましと希望を与えることです。私たちは、表と裏、信と不信、興奮している自分と醒めている自分、温かな面と冷ややかな面、熱心さと虚しさ・・などを合わせ持っている存在です。それゆえ、私たちはしばしば自分のたましいに向って、自分を励ますために語りかける必要があるのです。
- 「待ち望む」と訳される類義語は多くありますが(例: 詩25篇参照)、詩43篇5節の「ヤーハル」(יָחַל)は、将来になされる神の善を信じて、今日を生き抜く力をもたらす「待ち望み」を意味することばのように思えます。作者は、過去の良かったことを「思い起こし」ては、自分を励まそうとするのですが、過去と現実のギャップを知ることで、より辛くなっていく自分に気づきはじめているように思います。「待ち望み」のプロセスとしてそこはだれもが通るところかもしれませんが、どんなに良かりし過去を顧みたとて、今、生きる原動力とはなりません。人は将来に希望を持つことによってはじめて今の時を意味あることとして、創造的に生きることのできる存在です。つまり、明日を信じて生きることのできる人は、今日を生き抜くことができるということです。「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」との告白は、生きることに新しい喜びと力を与えます。