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瞑想Ps52/A

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瞑想Ps52/A

  • 詩51篇は、神への背きの罪が告白されていました。その背きの罪がもたらすものは、欺きと偽善です。詩52篇は欺きと偽善を愛する生き方ではなく、神の恵みに拠り頼んで生きようとする意志が明確に告白されています。ですから、この詩篇のキー・ワードを1節後半と8節の後半のダビデの告白にしたいと思います。
  • 1節後半では「神の恵みは、いつも、あるのだ」とあり、8節後半では「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む」とあります。ダビデは自分の生涯において、とこまでも神に背く悪の存在に悩まされ続けますが、その中で神の恵みを数多く経験した人でした。「あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。」(9節後半)と信仰の決意を新たにしています。
  • 表題ーエドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た」と言ったときにーを見る限り、作者が、理不尽な、不条理な経験の中にしばしば置かれたことを想起させます。ダビデはサムエルを通して、王位を約束され、神からの王としての油注ぎを受けました。しかし、このときから、ダビデがイスラエルの王となるまでの10年余、神による訓練が始まります。数々の不条理、理不尽とも思える経験、忘恩の仕打ちなどを経験します。しかしそれらの経験はすべて、ダビデが人間の真相を知り、人間の罪深さを身をもって体験するためのものでした。荒野における放浪生活、人生における夜という生活を味わったことで、ダビデの人格は磨かれ、やがてイスラエルの王にふさわしい者とされていったのです。
  • ところが、ダビデの放浪生活にとって、表題にある出来事は理不尽なものであったに違いありません。自分が神によって王となることを約束されたことによって、自分とかかわる者たちに、自分でも考えられなかった不幸が襲ったのです。
  • ダビデがサウルのもとから去って最初にたどり着いたのが、祭司アビメレクのところでした。単身でやってきたダビデを見てアビメレクは不信を抱きました。そこでダビデは、自分がサウルのもとから逃げていることが知られるならば、すぐに密告されてつかまってしまうかもしれないという恐れから、即座に祭司アヒメレクに嘘をついてしまいます。その嘘はダビデが自分を守るための最小限の手段でした。祭司アビメレクはダビデの言うことを信じて、パンを与え、また剣をも与えました。
  • ところが、悪いことに、その日たまたまサウロの家臣であったドエグがそこに来ていたのです。ドエグの目にはダビデと祭司アビメレクが結託しているかのように見えました。ドエグは自分が見たことをサウルに伝えたことで、アビメレクとその家族が(一人を除いて)すべて殺されるという事態が起こります。この事態を知ったダビデの心中は果たして如何に、・・・と思わせられます。ダビデが自分とかかわった者に甚大な被害が及んでいくのを知っても、ただ神にゆだねるしかないことを学ばなければなりませんでした。なぜなら、その背後には神に敵対する者がいつでも存在するという現実があるからです。
  • 「清濁合わせ飲む」という言葉があるように、神の訓練の中にはそうしたプログラムがあるように思われます。ダビデはサウロの殺意が自分にあることを知らされると同時に、サウロの息子ヨナタンからの無二の友情を経験しました。ダビデに対するヨナタンの友情は、まさに神によって結びつけられたものであり、それは私欲のない、しかも首尾一貫して変わることのないものでした。ダビデとヨナタンの二人の出会いは神によって導かれたとしか言いようがありません。本来ならばライバルであるダビデに対するヨナタンの友情は、神の恵み、神の賜物そのものでした。神はヨナタンを通してダビデを守られたのです。
  • 父サウルとダビデの板挟みになって苦しみながらも、なんとかダビデを救おうとするヨナタンの姿をダビデは生涯忘れることはありませんでした。後のダビデの治世において、王国の祝福と繁栄を前にしたときも、ダビデの心は弱い存在に対する者に向けられました。またヨナタンの息子メフィボシェテを王宮に迎え入れ、食卓を共にし、生活を保障しました。メフィボシェテは足が不自由であり、王宮に迎え入れられるには不適格者であったにもかかわらず、王子のごとく受け入れられました。これはダビデに対するヨナタンの友情のゆえです。そしてダビデはそこに神の恵みを味わっていたのでした。
  • 詩篇52篇の1節の「神の恵みは、いつも、あるのだ」という宣言はダビデの経験に裏付けられたものです。背後に悪が存在し、神に敵対しようとも、「しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みにより頼む。」(8節)と告白し続ける者でありたいと思います。

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