****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神の御住まいとなる教会

第19日目  神の御住まいとなる教会

【聖書箇所】エペソ人への手紙2章20~22節

【新改訳改訂第3版】
20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。


●20節の「あなたがた」で始まり、22節では「あなたがたもともに」となっています。つまり「あなたがた」とは、12節にもあるように、① 「イスラエルの国から除外され」、②「約束の契約においては他国人」、③「神もない人たち」のことで、異邦人です。ところが今や、キリストにあって、また御霊によって、ユダヤ人と異邦人が共に建てられることで、神の御住まいとなるとしています。「神の御住まい」とはヘブル語で「ミシュカン・エローヒーム」(מִשְׁכָּן אֱלֹהִים)です。ギリシア語では「カトイケーテーリオン・トゥー・セウー」(κατοικητήριον τοῦ θεοῦ)です。「ともに建てられ」は現在形受動態で、今もなお建て上げられ続けているのです。


はじめに

教会の諸表象.JPG
  • 前回は、神の家族としての教会についてお話ししました。聖書には教会がいかなるものであるかを示すさまざまなたとえがあります。教会はひとつのたとえでは表わし切れないからです。「新しいひとりの人」「キリストのからだ」「神の家族」「神の御住まいである教会」・・など。今回は、教会が「神の御住まいとなる教会」を取り上げたいと思います。「神の御住まいである教会」とせずに、「神の御住まいとなる教会」としたのは、それは今も絶えず成長を続けているためです。
  • 今回のテキストで、パウロは教会を「建物」にたとえています。私たちが教会と言うと、建物それ自体を想像してしまうことがありますが、教会は建物ではありません。建物自体がイコール教会というのではありません。便宜上、そう言っているにすぎません。真の教会はだれの目にも見えるというものではありません。「キリストのからだ」にしても、「あっ、キリストのからだが見える」という言い方はしません。テキストをもう一度よく見てみると、組み合わされた建物全体が成長するというふうに表現しています。からだであれば成長するという表現は理解できますが、建物が「成長」するというのは何か変です。しかしパウロがそのように言うのは、それは私たちが考えるような建物ではないからです。常に成長するいのちある建物、生きている建物、つまり、神と共に住む場としての聖なる宮を意味しています。そこに住むのは、イェシュアをメシアと信じるユダヤ人と、同じくイェシュアをメシアと信じる異邦人たちです。
  • 今回は、この箇所(2:20~22)から、三つのことを取り上げたいと思います。第一は「建物の基本構造とはなにか」ということ。第二は、「互いに組み合わされるとはどういうことか」。そして第三は、「成長して神の御住まいとなるためのプロセス」についてです。

1. 建物の基本構造とはなにか

  • 建物の最も重要な部分はどこにあると思いますか。イエスは「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」の話をされました。建物自体を見るならばどちらもなんら変わりません。ところが、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたとき、建物を支えている最も大切な部分が露わになりました。「岩の上に自分の家を建てた人」は雨が降って洪水が押し寄せても家はびくともしませんでしたが、「砂の上に自分の家を建てた人」は、ひどい倒れ方をしました。
  • 「岩の上に家を建てる」とは、土台を深くすることです。ユダヤでは、砂地のずっと下にある深い部分まで掘って土台を造ったのです。ですから、倒れることはありませんでした。このたとえが言わんとすることは、建物の最も大切な部分は土台にあること。その土台をイエス・キリストに置くことを教えているのです。私たちの信仰生活も、土台がどこに置かれているかを試されるときが必ずあります。普段は分からなくても、土台が露わにされるテストがあるということです。
  • 使徒パウロは、20節で「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と語っています。「土台」と「礎石」とありますが、どう違うのでしょうか。新改訳は「礎石」と訳していますが、聖書によってその訳語は以下のように様々です。
    ①「かなめ石」 (新共同訳) 、②「隅のかしら石」 (口語訳) 、③「隅石」(永井訳)、④「「土台石」(尾山訳)、⑤「最も重要な土台石」(L.B)・・など。
  • 「礎石」とは建物の要の石として、建物を完成させる上でなくてはならない最も重要な石を意味しています。詩篇118篇には、この「礎石」であるイエス・キリストを預言している箇所があります。しかも、神がそれを私たちに与えて下ったにもかかわらず、人はその石を何と捨ててしまったというものです。

【新改訳改訂第3版】詩篇118篇22~24節
22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
23 これは【主】のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
24 これは、【主】が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。


●ここで語られている「家を建てる者たちの捨てた石」とは、実は、礎の石となるべく定められたイエス・キリストのことを預言していたのです。そんな礎の石を捨ててしまっては家を建てることができません。しかし神はその石を用いて(復活させて)、建物をしっかりと完成させる要の石とされたのです。「私たちの目には不思議なことである」とあります。

頭石.JPG
  • 建物の土台である「使徒と預言者」が語ったことばは、後に新約聖書として書き記されましたので、その土台は神のことばである「聖書」ということが言えます。しかし、それ以上にもっとも重要な礎石(かしら石)はイエス・キリストです。イエス・キリストは弟子たちに「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。」と言われました。ですから、「わたしにとどまりなさい」「わたしのことばにとどまりなさい」「わたしの愛の中にとどまりなさい」と繰り返し話されました。これはとても大切です。御子イエスはいつも御父にとどまっていました。いつも御父のことばにとどまっていました。いつも御父の愛の中にとどまっていました。実は、今日、このかかわりがとても希薄なのです。このことが自分のライフスタイルとして形作られる必要があります。
  • パウロは21節で、「この方にあって、組み合わされた建物全体が成長し、主にある聖なる宮となるのだ」とし、22節でも「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」としています。教会という生きた建物、成長していく建物は、聖書という土台のみならず、さらにその土台となっている礎石(かしら石)であるイエス・キリストによって真の教会が建て上げてられていくのです。その目的は、教会が神の御住まいとなるためです。

2. 互いに組み合わされるということ

  • さて、21節と22節を見てみましょう。

    2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
    2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。


    ●2章21節と22節は同じことを別の表現でしています。使徒パウロはユダヤ人であり、同義的パラレリズムの修辞法を知っており、その達人です。以下のように言い換えられています。
    ①21節「この方にあって」=22節「このキリストにあって」
    ②21節「組み合わされた建物の全体が成長し」=22節「あなたがたもともに建てられ」
    ③21節「主にある聖なる宮となる」=22節「御霊によって神の御住まいとなる」

    ●ここで重要なことは、「私たち」(ユダヤ人)と「あなたがた」(異邦人)が「組み合わされ」「ともに建てられる」ことなのです。そのことによって、キリストを礎石とした教会が神の御住まいとなるのです。それは「聖霊によって」可能となったのです。しかしこの神のご計画はすでに「モーセの幕屋」の中に啓示されていたのです。

(以下は新しく加えられた部分)

  • 「ユダヤ人」と「異邦人」が「互いに組み合わされる(結び合される)」というこのヴィジョンは、旧約の二つの事柄の中にすでに啓示されていました。ひとつはモーセの幕屋の本体をおおう四枚の幕のうちの内側の二枚の中に、もう一つは主の例祭の「五旬節の祭り」でささげる二つのパンに啓示されています。ということは、聖書はヘブル的ルーツを断ち切ると神のご計画が理解できないことを示唆しています。

幕屋の全体図.JPG 画像の説明

朴 潤稙著「神の救済史的経綸から見る幕屋と契約の箱」の画集より引用(掲載許可済)

(1) 互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にすること

【新改訳改訂第3版】出26章1~6節

画像の説明

1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。
2 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。
3 その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。

内部の幕の50の金の輪.JPG

4 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に青いひもの輪をつける。他のつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにしなければならない。
5 その一枚の幕に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の端にも輪五十個をつけ、その輪を互いに向かい合わせにしなければならない。
6 金の留め金五十個を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする


●二つの幕を一つにするための「金の留め金」には、青いひもの輪があります。青は天の色であり、この二つを結びつけるのはキリストと御霊によって可能であることを啓示しています。人間的な努力ではできないことを「青色のひもの輪」がそのことを象徴しているのです。

●金の留め金によって「互いに」つなぎ合わされるのですが、この「互いに」と訳されているヘブル語を見てみると以下のようになっています。

画像の説明

  • 上図にあるように、「女」を意味する「イッシャー」(אִשָּׁה)と「姉妹」を意味する「アホーターハ」(אַחֹתָהּ)という語彙の中に、やがてキリストにあって共に組み合わされる(結び合される)「ユダヤ人」と「異邦人」からなる教会が啓示されていると考えることができます。ちなみに「教会」は女性形で表されます。
  • 「イッシャー・エル・アホ―ターハ」(אִשָּׁה אֶל־אֲחֹתָהּ)の中にある「エル」(אֶל)は前置詞です。これと似た用法が創世記32章31節にあります。「パーニーム・エル・パーニーム」(פָּנִים אֶל־פָּנִים)、これで「顔と顔を合わせて」という意味になりますが、直訳は「顔・に向かい合って・顏」です。ヤコブは「私は顔と顔を合わせて神を見た」と言って、その所を「ペニエル」と名づけました。他の例としては、民数記12章8節に「彼(モーセ)とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。」とあります。ここにある「口と口とで」の部分が、「ペー・エル・ぺー」(פֶּה אֶל־פֶּה)です。「イッシャー・エル・アホ―ターハ」、「パーニーム・エル・パーニーム」、「ペー・エル・ぺー」、いずれも、互いに向かい合っている状態を表しています。ここでも「女が姉妹と向かい合って」という意味で使われています。このような熟語によって、幕屋の中に新約の教会の構成員を預言的に啓示していたのです。
  • また、幕をつなぎ合わせる50個の「金の留め金」。なぜ、50個なのでしょうか。その数にも神のみこころが示されています。つまりその数は、次に述べる「五旬節」(五十日目)と密接なつながりがあります。

(2) 主の例祭ー「七週の祭り」に秘められた神の啓示

  • レビ記23章には主の例祭に関する規定が記されています。その章から、「五旬節」についての箇所を拾ってみましょう。

【新改訳改訂第3版】レビ記23章15~17節
15 あなたがたは、(過越後の)安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。
16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】にささげなければならない。
17 あなたがたの住まいから、奉献物としてパン──【主】への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの──二個を持って来なければならない。


●過越の祭りにおいては、大麦を初穂として神にささげ、しかも「種の入らないパン」を七日間食べなければならなかったのに対し、「七週の祭り」では、主への初穂として新しい小麦粉にパン種を入れて焼いたパンを二個ささげなければならないということです。なぜ、パン種が入ったものなのでしょうか。また、なぜ、それで作ったパンを二個なのでしょうか。ここに隠された神の秘密があります。

二個のパンは「ユダヤ人」と「異邦人」を意味しています。この二つのパンに罪を象徴する「パン種」を入れたものを祭司のところに持ってくるということは、あるがままで祭司を通して神に近づくことを意味しているのです。

●ユダヤ人たちは長い間、「七週の祭り」を行ないながらも、その意味することは覆われていました。しかし今やメシアなるイエスと聖霊の注ぎの賜物によって、その祭りの真意を悟ることができるようにされたのです。しかしながら、この「奥義」を聖霊に満たされた弟子たちがすぐに悟り得たかといえばそうではありません。この「奥義」が明確に啓示されたのは使徒パウロが最初でした。そして他の使徒に示されていきます。


3. 教会が成長して神の御住まいとなるためのプロセス

  • このように、ユダヤ人と異邦人が「組み合わされる」「ともに建てられる」ためには、ヘブル的ルーツを大切にする必要があります。私たちは、イエスが語られた「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。・・そしてわたしの証人となります」(使徒1:8)のみことばによって、聖霊の働きを宣教的視点から、どうしても「力を受ける」ということに思いが行ってしまいがちです。「五旬節(七週の祭り)」に聖霊が注がれることによって、その祭りが啓示していた事柄が成就したということにはなかなか思いが行き届きません。なぜでしょうか。その要因の一つとしてその伝道至上主義をあげることができますが、それ以上に、置換神学の弊害があります。その弊害は、キリスト教会がその歴史においてユダヤ的なルーツを断ち切ってしまったことによってもたらされたものです。
  • ローマ・カソリック教会は「新約にある信者は安息日を含め、 主の例祭を祝わないように、祝う者は信者間の交わりから除名する。」との通告を出しました。この通告はキリストのからだである教会からユダヤ的ルーツを一掃することを意図したものでした。「ニカヤ公会議」(A.D.325年)において、主催者であったローマの皇帝コンスタンティヌスは当時のユダヤ的ルーツを継承していた教会指導者を招待しませんでした。そのために、キリスト教会は元木であったユダヤ的な教会から切り離され、ヘレニズム(異教)化の道に進んでしまったのです。この影響は今日に至るまで多大な影響を与えています。それゆえ今日、再びユダヤ的・ヘブル的ルーツに立ち戻る必要性が叫ばれているのです。でなければ、神のご計画も、神のみこころも、神の御旨も神の目的も、正しく理解することができないからです。ですから、

「立ち止まり、そして、振り返れ!!

これが、今、教会に求められていることなのです。


(改訂)2016.2.11


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