****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

第二次伝道旅行 (2) 神の導きの確証 (2)

文字サイズ:

24. 第二次伝道旅行 (2) 神の導きの確証 (2)

【聖書箇所】 16章6節~10節

画像の説明

ベレーシート

  • 第二次伝道旅行は、前回の伝道旅行で主の兄弟となった人々の訪問するという思いから始まりましたが、パウロの思いとは裏腹に主の深いご計画がありました。その方向へと導かれていきますが、その導きがこれまでのものとは少々異なる導きを経験することになりました。
  • 16章6節から10節までの短い箇所の中に教えられるところが多くあります。四つの事柄を取り上げたいと思います。

1. 聖霊によって禁じられるということ

【新改訳改訂第3版】16章6~7節
6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった
8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。

  • パウロの一向はアジアでみことば(福音)を語りたいと考えていたようですが、門が開かれませんでした。7節に「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」とありますが、「それを」が原文では複数形になっています。なぜ複数形なのか。その答えはパウロの一行がビテニヤのほうに行こうと何度も何度も試みようとしたからです。つまり、行こうと「試みる、試す、努力する」の「ペイラゾーπειράζωが未完了で書かれているからです。一回や二回ではなく、何度も彼らは試みようと努力したのです。しかし、イエスの御霊かそれを許可しなかったのです。
  • 「聖霊によって禁じられた」り、「御霊が許可しない」ときには、深い神のみこころが隠されているということが分かります。とはいえ、それが何であるかすぐには分からなかったようです。パウロの一行は方向を西側に向けて進むしかありませんでした。導きの型としては「消却法」です。あれもダメ、これもダメ・・という形で多くの可能性の中から少しずつ神のみこころへと絞られていく導き法です。結果としては、消却法によってパウロの一行はトロアスという所に導かれました。

2. 「ある夜」(使徒パウロの生涯における「特別な夜」の経験)

16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。

  • パウロの人生において、特別に意味をもった「ある夜」があったことを使徒の働きは記しています。最初の「夜」の経験ーこれは「ある夜」とは記されていませんが、ダマスコ途上でキリストに出会って彼の目が見えなくなったとき、その暗闇の中でパウロは「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」と尋ねています。それまでは自分が正しいと思ったことはどこまでも熱心にやってきた彼でしたが、ここでは完全に自分の生きるべき方向を見失っています。その時の祈りがこの祈りでした。「ダマスコに行けば、彼がするように決められていることはみな、告げられる」と主から言われて、パウロはダマスコへ行きます。そしてそこで目からうろこのようなものが落ちて新しいパウロが誕生したのです。
  • パウロの信仰生涯の中で冠詞を伴った特別な「夜」があるのは、今回のテキストにある使徒16章9節、および18章9節、23章11節の三回です。それぞれ、「幻」によって、「幻の中の主の声」によって、直接主の声によってみこころが示されています。

3. 「私たち」のスタート

【新改訳改訂第3版】
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

  • 使徒16章10節から、パウロの一行が三人称ではなく、一人称の「私たち」となっています。これはパウロの一行の中に、使徒の働きを記したルカが加わったことを示しています。どのように出会ったのかは一切記されていません。突如として「私たち」になっています。しかし、ピリピの町の先からは再び、「彼らは」となっています(17:1)。つまり、トロアスからパウロの一向に加わったルカが、マケドニアでの最初の伝道地であったピリピにとどまったことになります。
  • 再び、「私たち」が登場するのは20章5, 6節です。つまり、第三次伝道旅行のピリピにおいてです。そしてエルサレムにルカも同行してます(21:17)。そして、ルカはローマの旅にも同行しているのです(28:14)。

4. 神の導きの「総合型」

【新改訳改訂第3版】
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

  • 10節の主動詞は、「ただちに・・へ出かけることにした」の「した」の部分である「ゼーテオー」という動詞です。この語彙は本来は「熱心に捜し求める」という意味ですが、ここではあることを熱意をもってしようという意味です。「出かけることにした」のは、自分たちが「確信したから(理由を示す「ホティ」ὅτιがあるから)」です。
  • 「出かけようと熱心に努めた」その説明文として、「神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだと、確信したから」なのです。ここの「確信する」という動詞は「スンビバゾーσυμβιβαζωです。この語は、組み合わす、結び合わす、比較検討しながら最終的な結論を出すことを意味しています。さまざまな材料を組み合わせながら、比較検討しながら、論証しつつ、最終的な結論を出すということです。「スンビバゾー」のヘブル語訳は、とても親密な深い関係を意味する「ヤーダ」(יָדַע)です。つまり、主の導きを知るに至ったという意味になります。これは「総合型」という神の導きのパターンです。ここで注目すべきことは、ここでの確信ー神がマケドニヤで福音を宣べ伝えるということーが、パウロ一人だけでなく、「私たち」の全員が確信したということです。つまり、この一致にも確信の要因があったということです。

2013.6.6


a:7543 t:2 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional