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第四のしもべの歌 (1)

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47. 第四のしもべの歌 (1)

【聖書箇所】52章13~15節

ベレーシート

  • 旧約聖書において、メシアによる贖罪的受難(代償的受難)を鮮やかに預言している最高峰と言えばイザヤ書53章です。エチオピアの宦官がエルサレムを去って、ガザに向かっていたとき、彼はイザヤ書53章を朗読していました。宦官は「ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」という句の意味が分かりませんでした。そこで彼は、主の御使いによって導かれて近づいてきた伝道者ピリポに尋ねました。「ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか。それとも、だれかほかの人ですか。」と。この問いに答える形で、ピリポは宦官に、この句から始めてイェシュアのことを宣べ伝えたのでした(使徒8:35)。ここで「答えた」とは記さずに、「宣べ伝えた」とルカは記しています。この「宣べ伝える」という動詞「ユーアンゲリゾー」(εὐαγγελίζω)は、良き知らせとしてイエス・キリストのことを伝えたことを意味します。
  • ところで、エドワード・J・ヤングは、52章の末尾にある3つの節(52:13~15)を53章の序文として位置づけています。つまり、53章で預言者イザヤが語る内容をコンパクトにまとめているということです。しかもその三つの節は、主が「見よ」と特別に注目させているのは「主のしもべ」です。まずはその箇所を見てみましょう。

1. 第四の「主のしもべ」の歌の序文の構成(52:13~15)

【新改訳改訂第3版】イザヤ書52章13~15節
13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
14 多くの者があなたを見て驚いたように、──その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた──
15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。


【中澤洽樹訳】イザヤ書52章13~15節
13 「見よ、わが僕は栄え、揚々とあげられて大いに高くなろう。
14 かつて多くの者がお前を見てうち慄えたが、〔彼の面影はそこなわれて人に似ず、その容姿は人の子とも見えなかったゆえ〕
15 いま彼は多くの国民を驚かせ、彼に対して王たちは口をつぐむ、いまだ語られなかったことを彼らは見、いまだ聞かれなかったことを悟るがゆえに」


(1) 「主のしもべ」の任務は成功に終わる

  • 13節の冒頭の「見よ。わたしのしもべは栄える」とは、「主のしもべ」が与えられた任務を果たして成功するという明言です。「栄える」と訳されたヘブル語の「サーハル」(שָׂכַל)は、本来「成功する、戦果をあげる」という意味ですが、ヒフィル(使役)態では「賢くふるまう、賢く行動する、思慮がある、栄える」の意味になります。つまり第四の「主のしもべ」の歌は、主のしもべに与えられた任務が成し遂げられて、成功するということが強調されているのです。
  • これまでの第一から第四までの「主のしもべの歌」の主題は以下の通りです。

    第一の「主のしもべの歌」(42:1~9)
    ー歌い手は「」。

    • 主のしもべの召命は、トーラー(みことば)を回復することによって、地に「公義(ミシュパート=統治)を打ち立てる」こと。

    第二の「主のしもべの歌」(49:1~13)
    ー歌い手は1~6節は「主のしもべ」、7~12節は「」、13節は「預言者イザヤ」。

    • みことばを回復させるために、しもべは神によって隠されるということ。また、主のしもべの召命の目的がイスラエルの回復のみならず、異邦人の救いをももたらすこと。

    第三の「主のしもべの歌」(50:1~11)
    ー歌い手は1~3節は「」、4~11節は「預言者イザヤ」。

    • 主のしもべは「耳を開かれた」(従順な)者として、受難をも引き受け、喜んで、主に従っていく者であること。

    第四の「主のしもべの歌」(52:13~53:12)
    ー歌い手は52章13~15節は「」、53章1~12節は「預言者イザヤ」。

    • 主のしもべは賢く行動して与えられた任務を成功させて高揚される。と同時に、受難の真の理由は人々の罪のためであり、しかもそれは与えることを喜びとする主の「ヘーフェツ」(חֵפֶץ)の愛に基づいていることが明らかにされる。
  • 主のしもべは与えられた召しの目的を果たしますが、そのためには大きな苦難を伴うことがすでに第二、第三の「主のしもべの歌」の中にも示唆されています(49:4、50:6)。しかし第四の「主のしもべの歌」では、「主のしもべ」が苦難を受けなければならない真の理由が明示されています。それが第四の「主のしもべの歌」の特徴です。

2. 主の「高挙」と「受難」

(1) 主の高挙

  • 受難の中においても、主を最後まで信頼したがゆえに、主のしもべはが高挙されることが記されています。イザヤ書52章13節は下記の三つの類語的な動詞を並べることによって、しもべの高挙が最高峰のものであることを強調しようとしています。ちなみに、その三つの動詞とは以下のものです。
    ①「ルーム」רוּם・・「上げる、高める、高く上げる」の意。
    ②「ナーサー」נָשָׂא・・ニファル(受動態)で「上げられる、あがめられる」の意。
    ③「ガーヴァハ」גָבַהּ・・「高くなる」の意。この語彙に「非常に」という意味の「メオード」(מְאֹד)が付け加えられています。
  • 主のしもべの受難と高挙というテーマは、使徒パウロがピリピ教会に宛てた手紙の中に記されています。

    【新改訳改訂第3版】ピリピ人への手紙2章6~11節

    6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。【受難

    9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。【高挙

(2) 主の「受難」

  • 「受難」と「高挙」はきわめて対照的な出来事です。プロセスとしては、「受難」の後に「高挙」が来るのですが、イザヤ書52章ではまず「高挙」(13節)が強調され、その後にしもべの「受難」(14節)が示され、その理由(15節)が記されるという構成になっています。

(3) 主のしもべに対する「驚き」

【新改訳改訂第3版】イザヤ書52章14節
多くの者があなたを見て驚いたように、──その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた──

画像の説明

  • 「多くの者があなたを見て驚いたように」を中澤氏は「かつて多くの者がお前を見てうち慄えたが、」と訳しています。「かつて」という言葉は「うち慄(ふる)えた」という動詞が完了形になっているからだと思われますが、これを預言的完了形として解釈すれば、「かつて」という言葉は不必要になり、「やがて必ず見て驚くことになるように、高く挙げられることについても『驚く』(未完了)ようになる」という含みのある構文となっています。二つの驚きをつないでいる「~のように」は、前置詞の「ケ」(כְּ)と関係詞の「アシェル」(אֲשֶׁר)から成っている「カアシェル」(כַּאֲשֶׁר)が使われています。主のしもべの高挙も受難も、いわば前代未聞の「驚き」となることが強調されているように思われます。
  • 14節の「驚いた」は「主のしもべ」の顔が人とは思われないほどに損なわれてしまうところの「色を失うような」「ぞっとするような」驚き、あるいは、おののきを意味する動詞です。ヘブル語では「シャーマム」(שָׁמַם)です。事実、主のしもべなるイェシュアの肉体は、十字架において、ローマ軍の兵士によるリンチを受けます。イェシュアの肉体は、打撲傷、裂傷、刺傷、貫通傷、破裂という五種類の傷を受けます。映画などでは顔はまだ見ることができますが、実際には、人の面影を失うほどの損傷を受けることが預言されています。おそらく顔だけでなく、肉体全体が膨れ上がり、人の肉体とは思えないほどの様相になってしまったと考えられます。ちなみに「シャーマム」(שָׁמַם)は、自然界の「地」に対しては「荒廃する」、土の「器」に対しては「壊される」、道徳に対しては「堕落する」(ノアの洪水前の状態)、人間の姿に対しては「正常な形が損なわれてしまった」という意味で使われています。
  • そのような「主のしもべ」の受難はさらなる「驚き」を与えることが預言されています。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書 52章15節

    そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

  • 15節では「彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。」とあります。後者の「口をつぐむ」とは、沈黙してしまうことを意味し、前者の「驚かす」は、受難の結果としてもたらされる「驚き」です。喜びと沈黙の「驚き」をめぐってさまざまな解釈があるようです。以下、三つの解釈をあげたいと思います。

●15節の「驚かす」のヘブル語は「ナーザー」(נָזָה)の使役態です。「驚き」は主のしもべの受難に対するショッキングな感情を表わす語彙ですが、その内容も程度もさまざまに解釈されます。

(1) 人々(多くの国々、王たち)をきよめるために血をふり注いだという解釈

  • 「ナーザー」は祭司たちが着る白い亜麻布の装束をきよめるために、祭壇から取った血をその装束に「ふり注ぐ」という意味があります(出29:21)。白い亜麻布に動物の赤い血がふり注がれることによってきよめられるという祭司的務めにおける「驚き」という解釈。

(2) 多くの人々を喜びで満たすという解釈

  • 「ナーザー」にはもう一つ、「跳び上がるほど喜ぶ」という意味があります。自分のいのちを贖いの代価として与えることの喜び、神のみこころを満足させる(神が喜ぶ)という意味の「驚き」という解釈。

(3) 前代未聞の受難に対する解釈

  • 「まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るから」とあるように、主のしもべの受難と死、そして高く上げられたその姿に対する深い敬意と畏れのゆえの「驚き」という解釈。この解釈は(1)も(2)も含ませることのできる解釈とも言えます。


2014.11.4


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