****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

詩61篇/B

Ⅱ/B(42~72篇) | テキストPs61 | 原典テキストPs61 | 瞑想Ps61/A | 礼拝用語Ps61 | 恩寵用語Ps61 |

瞑想Ps61/B

◆詩篇61篇の2節、「私の心の衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。」という祈りに注目してみたいと思います。「地の果て」とは、単なる地理的な距離のことではなく、自分の力では、到底、回復できない状況にあることを意味しています。 「地の果て」を関根訳では「陰府(よみ)のふたから」と訳しています。言うなれば、最も深い所と言えます。その状況をダビデは、いみじく も、「私の心が衰え果てるとき」(2節) 他の訳では、「わが心のくずおれるとき」(口語訳) 「心が挫けるとき」(新共同訳)「失望落胆して心がくずおれるとき」(LB訳)と述べています。そんな「地の果て」と思われるような状況から、ダビデは神に心の叫びを上げたのです。その叫びは、「私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください」というものでした。

◆「及びがたいほど高い岩の上に」とはどういうことでしょうか。「及びがたいほど高い岩の上」とは、ある確かな地位と立場を意味します。つまり、すべての力の源泉です。支配、力、権威、権力、主権が与えられる地位です。それによって、ダビデは神の代理者としての王の務めを、ますます忠実に果たしていくことができるからでした。この祈りは実に預言的です。なぜなら、この祈りは真の王であるイエス・キリストにあって、成就しているからです。

◆新約のエペソ書の光で理解するならば、神はその全能の力によってキリストを神の右に座わらせられました。そして驚くべきことに、罪過と罪の中に死んでいた私たち、御怒りを受けるべき私たちをも、天の父がキリストとともに生かし、よみがえらせ、天の所に座らせてくださいました。それは私たちがキリストとともに、勝利の座に着くためです。

◆そしてまた、そこは最高に親しい神との交わりの場所、シークレット・プレイスでもあります。私たちが信仰によって、いつもその地位と立場にあることを思い起こすとき、たとえ、どのような状況にあったとしても、それに支配されない歩みができることと信じます。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional