****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

詩89篇/B

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瞑想Ps89/B

◆旧約聖書と新約聖書とを結んでいるのは神の救いの計画です。そしてその救いの計画の土台となっているのが「契約」です。信仰とか愛を「契約」という概念で捉えることは、私たち日本人にとって不得手のようです。なぜなら、人間関係というものを情で捉え、情を優先させてきた社会だからです。この影響は、一般の社会だけでなく、教会においても言えます。信仰の基本が契約であるということが真剣に受け止められていないために、洗礼を受けても、自分の都合で礼拝を平気で休むということが起こります。また感情的な理由で教会を去ったりします。教会において、なぜ聖餐式が重要なのか、なぜ繰り返し行われるのかを正しく認識している信者は多くはありません。契約ではなく情で成り立っているために理解しにくいのです。一般でも、キリスト教式結婚式での誓約も新郎新婦が人生最大の契約を結ぶという意識はきわめて希薄です。これが日本の精神風土です。

◆パソコンのソフトをインストールするとき、必ず、契約に「同意する」、「同意しない」ということが問われます。私はほとんど契約の内容を確かめることなく、ためらわずに「同意する」というところをチェックしてしまいます。「契約概念が薄い」と言われても仕方がありません。種々の保険に関しても、何か問題が起こったときにはじめて契約書の内容を読むような始末です。契約の厳しさを知らない。それが私の弱さであり、また日本人の弱さでもあります。私たちは、欧米人から言わせれば「アン・フェアー」(ずるい)な人種なのです。

◆旧約聖書は契約の厳しさをとことん教えています。それは新約聖書においても変わりません。神と人との「契約」、神の「情」、そしてその関係を、聖書を通してもう一度しっかりと捉え直す必要があると思います。イエス・キリストの十字架の出来事は、まさに契約の厳しさと情がまさに交錯している場所だと信じます。私たちが失敗したとき、再起できる希望は、ひとえに神の契約の中に隠されているのです。

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