****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

風を追うような「空しさ」の叫び

文字サイズ:

伝道者の書は「光なき人生の虚無から、まことの光に生きることを指し示す」最高のテキストです。

1. 風を追うような「空しさ」の叫び

【聖書箇所】1章1~18節

ベレーシート

  • 「伝道者の書」と訳されていますが、原文では「ディヴレー・コーヘレット
    (דִּבְרֵי קֹהֶלֶת)です。「伝道者」と訳された「コーへレット」(קהֶלֶת)は「集まる」を意味する動詞「カーハル」(קָהַל)、そこから派生した名詞の「カーハール」(קָהָל)は集会における特別な責任を担う者を意味し、「伝道者」や「説教者」などを意味します。また「~の書」は原語「ダーヴァール」(דָּבָר)の複数連語形「ディヴレー」(דִּבְרֵי)です。その組み合わせで「伝道者の書」となっています。英語ではkoheleth と表記するため、「コーヘレス」とする人もいます。また、新共同訳、およびフランシスコ会訳は「伝道者」のことをヘブル語のままで「コヘレト」としていますが、それはヘブル語の母音の長短を表記しないという方針のようです。私自身は、ヘブル語の教科書通りに「母音の長短は表記すべきだ」と考えていますので、「コーヘレット」と表記しています。
  • この伝道者は、「日の下で」なされるすべての営みを自ら経験しただけでなく、それが「日の上」の視点から見るならば「すべてが空しい」と悟った者です。その「空しさ」をいろいろな言葉で語っているのが本書と言えます。

1. 「日の下で」

  • 「日の下で」と訳された「タハット・ハッシャーメシュ」(תַּחַת הַשָּׁמֶשׁ)は本書の特徴的な語彙で29回使われています。「タハット」は「~の下で」を意味する前置詞、そして「ハッシャーメシュ」は冠詞(「ハ」הַ)つきの「太陽」を意味する「シェメシュ」(שֶׁמֶשׁ)です。「タハット」(תַּחַת)も「シャーメシュ」(שָׁמְשׁ)も三つの文字から成っていますが、その真ん中の文字の両サイドに同じ文字が使われていて、日本語でいうならば、上から読んでも下から読んでも「山本山」の配列です。さらに付け加えるならば、4章12節に出てくる「三つ撚りの糸」の「三つからなるもの」を表わす「シャーラシュ」(שָׁלַשׁ)もその一つです。
  • 「日の下で」というフレーズには、「この世で」「この世の価値観において」「やみの支配の中で」というニュアンスがありますが、「天の下で」(1:13/2:3/3:1)や「地」や「地上」と同義です。「日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」と述べているのは、この書の伝道者が、「日の下」ではない「日の上」(このような表現は聖書では使われていませんが)の世界、つまり「永遠」と「光」の世界を知っている者だからです。つまり、イェシュアのいう「永遠の御国(神の支配)」の視点から「日の下で」起こる事柄を、「日の下で」なされるすべての事柄(労苦)を見ているのです。もし、神の永遠の御国を知らなければ、「伝道者の書」の言う「空」は単なる「ニヒリズム(虚無主義)」に陥ってしまい、そこには絶望しかありません。しかしこの世のやみの世界が「空の空」であったとしても、「日の上」には決して失われることのない永遠のいのちの世界があることを指し示そうとしているのです。

2. 日の下のすべての労苦に益なし

  • 1章3節には、ヘブル語特有の強調表現が見られます。

【新改訳改訂第3版】
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。

【新共同訳】
太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。

【口語訳】
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

  • 口語訳の「人が労するすべての労苦」は直訳に近く、また新改訳では「どんなに苦労しても」と訳していますが、その部分のヘブル語原文は以下の通りです。

画像の説明

  • 同じ語根を重ね合わせることで意味を強調しようとする用法(同根対格)が用いられています。ここではעמלがそれです。「人が骨折る、ありとあらゆる労苦に、いったい何の益があるのか」といったニュアンスです。多くの労苦を重ねてきた人にとっては、つまずきかねないことばです。しかし、伝道者は言うのです。「日の下では、それが何の益になろうか。永遠に失われることのない、価値ある「利益」をもたらすことにはならない。」と。まさに「空の空」の極致です。

3. 日の下には新しいものはない

  • 「日の下で」は「万物流転の世界」です。6節に「巡り巡って風は吹く」とあります。「巡り巡って」というフレーズには「巡る」を意味する動詞の「サーヴァヴ」(סָבַב)と名詞化された分詞「ソーヴェーヴ」(סֹבֵב)が使われています。「日の下で」は永遠に固定された揺るがないものがなく、すべてが循環の輪の中で動いています。水は気化して水蒸気になり、固体化して雪や氷になります。目に見える形は変化してもその実体はなんら変わりません。天体の運動も循環の法則が支配しています。「新しいものは何もない世界」です。「新しい」と思っても、それはすでに以前からあったものが発見されただけにすぎません。何の目的もなく、万物の営みが繰り返されている世界です。仏教ではこうした輪廻から解脱することが救いです。しかし聖書の救いは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)とあるように、キリストにあって再創造されることです。イェシュアの十字架の死と復活は、まさにそのことを確証する出来事でした。このことを正しく理解して信じる者は、教会の聖礼典の「洗礼」の真意を正しく悟ったと言えるのです。
  • 伝道者は、この世の知恵を用いて、日の下にある「新しさ」(「ハーダーシュ」חָדָשׁ)を一心に尋ね、探り出そうとしました。しかしその労苦は報われることなく、ただ、風を追うような空しさを味わっただけでした。この「新しさ」(「ハーダーシュ」)は終末論的な意味の「新しさ」です。つまり神のご計画における最後の段階に実現する事柄を意味します。「ハーダーシュ」(חָדָשׁ)は旧約聖書に53回使われていますが、最も多く使われているのはイザヤ書の10回で、しかもすべて41章以降です。イザヤ書に次いで詩篇が6回、その多くが「新しい歌」で使われています。つまり、メシアが王となる時に「主に向かって」新しい歌が歌われるのです。このように、神の「新しさ」は、神のご計画にある永遠の御国の完成と深く結びついているのです。日の下にある「空しさ」(「へヴェル」הֶבֶל)に打ち勝つためには、神の永遠のご計画にある「完成」(「シャーレーム」שָׁלֵם)に目が開かれる必要があるのです。
  • 「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」(1:18)とあります。だからと言って、「知恵や知識を得ても悩みや悲しみを増すだけだから、そのようなものは必要ない」と考えることは浅はかな考えです。このことばが意味することは、上からの知恵、神についての知識がなければ、結局のところ、「新しいもの」に触れることができず、「へヴェル」(הֶבֶל)な悩みと悲しみしか得られないということなのです。
  • 神が私たちに与えてくださる御霊の賜物の筆頭に来るのは、「知恵と知識の賜物」です(Ⅰコリント12:8)。この賜物によって、私たちははじめて神の知恵が与えられて、神が与えておられる「救い」(=日の下では存在しない「新しいもの」)を得ることができるのです。ですから、私たちは神からの「良い物」を求めましょう。使徒パウロは以下のように述べています。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙1章17~19節
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。


2016.2.26


a:2471 t:3 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional