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恩寵用語Ps42

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詩42篇「(恵みを)施す」 צָוָה ツァーワー 

〔カテゴリー賦与〕

  • 8節「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。」(新改訳)
  • 8節「昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。」(共同訳)

Keyword; 「施す、送る」 direct, command, order,
7:6/33:9/42:8/44:4/68:28/71:3/78:5, 23/91:11/105:8/111:9/119:4, 138/133:3/148:5

  • 「施す」「送る」と訳された「ツァーヴァー」(צָוָה)は、旧約で502回、詩篇では15回使われています。「ツァーヴァー」(צָוָה)は、本来、「命じる」command 「定める」「任命する」を意味することばです。特に、モーセ五書、ヨシュア記、エレミヤの特愛用語です。しかし、詩42篇では、主が私たちに何かを「向ける」「注ぐ」という意味合いで訳しています(NIV訳ではdirectと訳しています)。その「何か」とは、ここでは「主の恵み」(חֶסֶד(ヘセド)」です。
  • 異国の地にあることを余儀なくされた作者が、神を知らない者から絶えず「おまえの神はどこにいるのか」(42:3)という問いかけを契機にはじまった霊的葛藤、そしてその霊的渇望は他の詩篇にも勝って強烈です。ちなみに、「慕いあえぐ」(新共同訳、関根訳、岩波訳では「あえぐ」、典礼訳では「あえぎさまよう」)と訳された「アーラグ」(עָרַג)という動詞は、この詩42篇にしか見られない珍しい動詞です。
  • こうした状況の中で、作者は自分のたましいに対しても呼びかけています。「わがたましいよ。なぜ。おまえは絶望しているのか。思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(5節) 自分のたましに向かって呼びかけるこの作者の霊性はすばらしいものがあります。こうした呼びかけが私たちの信仰生活にはとても大切な気がします。なぜなら、失望落胆している自分のたましいを客観的な視点から呼びかけることで、見失っている神に目を向けさせているからです。「私のたましいよ、目をさませ。」と言わんばかりです。そうした文脈の中で、8節を受け止めることが必要だと思います。
  • 「昼には、主が恵みを施す。」「昼、主は命じて慈しみをわたしに送られる」・・主が命じられるならば、だれもそれを阻むことはできません。「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じると、それは堅く立つ。」(詩33篇9節)からです。詩133篇3節にも、「兄弟たちが共に住む祝福」を「主がとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」としています。主の命令はそのいつくしみから、かつ権威をもって発せられます。この神の恩寵をどんなときでも信じられるかどうかか問われています。主が恵みを私に向け、注ぎ、施されていることを信じて、「主の恵みは、いつも、あるのだ。」(52:1)と確信できるならば、「夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。」(42:8後半)と告白できるはずです。これは神の恩寵によるかかわりのいのちのです。


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