恩寵用語Ps44
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詩44篇「愛する」 רָצָה ラーツァー
〔カテゴリー愛顧〕
3節「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただ、・・・あなたが彼らを愛されたからです。」 (新改訳)
Keyword; 「愛する、受け入れる、好む、喜ぶ、好意を示す」 love, accept, delight, pleased with enjoy
40:13/44:3/49:13/50:18/51:16/62:4/77:7/85:1/102:14/119:108/147:10, 11/149:4
- 詩44篇の全体を眺めてみると、最初の8節までは自分たちの先祖から聞かされた神の一方的な恩寵によって地が賦与されてきたことを思い起こし、その根拠として、主が「愛されたから」だと告白しています。ところが9節以降では、「それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめました。」(9節)、「これらのことすべてが私たちを襲いました。」(17節)としています。ところが作者は、「しかし、私たちはあなたを忘れませんでした。・・契約を無にしませんでした。・・しませんでした。」とたたみかけるように訴えています。
- 詩篇42, 43篇で見られた「なおも神をほめたたえる」という信仰の姿勢が (言葉こそありませんが)、ここにも流れているように思えます。しかし依然として事態は変わらず、作者は「なぜ」と問いかけ、最後の節では「あなたの恵みのために、私たちを贖い出してください」(26節)と嘆願しています。
- 「愛された」と訳された「ラーツァー」(רָצָה)は、旧約全体で52回、詩篇では13回使われています。「愛されたから」(新改訳、バルバロ訳)、「愛しておられる」(典礼訳)、「受け入れられたから」(関根訳)、「恵まれたから」(口語訳)、「顧みたから」(岩波訳)、「おこころにかけてくださったから」(LB訳)、「お望みでした」(新共同訳)とさまざまに訳されています。
- このことばのもつニュアンスは神の愛顧です。神の愛顧は、人間の生育史でいうならば、母親の赤子に対するかかわりにおいて「基本的信頼」を培う愛にたとえることができます。「基本的信頼」は赤子のごく初期の期間(生後8ケ月)にほぼ決定づけられ、その子の生涯におけるあらゆるかかわりを左右するほどの大切な土台だと言われています。
- 旧約聖書には個人が集団を代表するという「ヘブル的集合人格の概念」が存在します。つまり、作者と3節の「あなたは彼らを愛された」の「彼ら」とは実は同義です。神が先祖たちを愛されたということの中に、自分の存在の基本的信頼が包含されていると考えることができます。詩篇44篇の作者が、周囲からの侮辱と恥にさらされながらも、なおも神を求め続けていけるのは、神との基本的信頼のいのちが流れているからに他なりません。
- 基本的信頼のいのちは賜物です。努力で得られるものではありません。神がアブラハムを愛し、その子孫に対して常にねんごろに親しくかかわってくださったという「ラーツァー」(רָצָה)こそ、まさに神の民(あるいはユダヤ民族)全体としての財産なのです。それを土台とし、作者をしてなおも「なぜ」と問わせるのは、より深い絆を形成するためです。
※「ラーツァー」(רָצָה)については、詩篇85篇も参照