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恩寵用語Ps98

詩98篇 「ニフラーオート」 נִפְלָאוֹת

〔カテゴリー統治〕

  • 1節「新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。」
  • Keyword 「奇しいわざ」
  • 1節における「主は、奇しいわざをなさった」という恩寵に注目してみたいと思います。日本語には訳されていませんが、原文では「新しい歌を主に歌え。なぜなら(「キー」כִּי)・・」という理由を示す接続詞がついていて、歌う理由が示されています。その理由とは「主は、奇しいわざをなさった」ということです。「奇しいわざ」は、「不思議なわざを(自ら)行なう」という動詞「パーラー」(פָּלָא)のニファル形(再帰、受動態)の分詞・複数「ニフラーオート」(נִפְלָאוֹת)で、文法的には名詞として扱われます。ですから、英語ではmarvelous thingsと訳されています。「なさった」という動詞には別の「アーサー」(עָשָׂה)が使われています。
  • この動詞「パーラー」(פָּלָא)が聖書で最初に登場するのは、創世記18章です。

    (1) 創世記18章には、3人の人がアブラハムを訪ねてきて、そのうちの一人が「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたをところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻には男の子(約束の子)ができている」と言います。アブラハムはそのことばを疑いますが、その時、すかさず主はアブラハムに、「主に不可能なこと(פָּלָא)があろうか」と語っています。

    (2) 出エジプト3章20節では「主はエジプトをあらゆる不思議(נִפְלָאוֹת)で打った後で、あなたがたを(エジプトから)去らせる」と約束しています。実際にそうなりました。

    (3) 出エジプト34章10節では「わたしはすべての民、すべての前で地のどこにおいても、また、どの国のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいこと(נִפְלָאוֹת)を行おう。あなた(モーセ)とともにいる民はみな主のわざを見るであろう」と語られます。

    (4)エレミヤ書32章17節では、エレミヤが主に「あなたは何一つできないことはありません。」と祈っています。

    (5)エレミヤ書32章27節では、主がエレミヤに対して「見よ。・・わたしは主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」とたたみかけています。神がご自身の民をバビロンに捕囚させて、そこで彼らに一つの心と一つの道を教え、神から離れることのないようにさせたのです。

  • このように、「パーラー」(פָּלָא)は人間には決してできないことを、不可能なことを主が自らそのことをなすことを意味します。イスラエルの歴史を見ていくなら、その歴史は神の「奇しいわざ」によって彩られていることが容易にわかります。
  • また、この「パーラー」にはもう一つの意味合いがあります。神への特別な誓願―つまり、任意の、自発的なささげ物を神にするときには、決して傷があったり、欠陥があってはならないということで、「特別な事柄(誓願)」ということに「パーラー」(פָּלָא)が使われています。この「特別さ」が驚嘆すべきことだということです。信仰による神への自発的な特別なささげものをするということに、何か驚嘆すべき面があるということでしょうか。イエスが百人隊長の信仰に「驚かれた」ことを思い起こします(マタイ8:10)。また、御子イエスが御父のみこころとして、自ら、罪なき、汚れなきご自身のいのちを特別に神にささげるということにおいて見ることができます。これは人間にはできない、尋常ではない、「特別な驚き」の事柄でした。
  • メシア詩篇である118篇22, 23節では「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主がなさったことだ。私たちの目には不思議なこと(נִפְלָאת)である。」―マタイ21章42節とマルコ12章11節に引用ーとあります。この「不思議なこと」とは、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を指しています。
  • 詩篇118篇23節の「不思議なこと」を、LXX訳聖書では「サウマストス」θαυμαστοςというギリシア語に訳しています。「サウマストス」θαυμαστοςとは、「驚くべき、不思議な、人間には理解できない、普通でない」という意味です。イエス・キリストの死が、神の究極の愛の現われであることは実に驚くべきことで、尋常なことではありませんでした。私たちが神のもとに導かれることも不思議なことです。御父が「引き寄せて」くださらなければ、私たちは主イエスに出会うことさえできませんでした。神から離れてもおかしくない状況(罪を犯したり、失敗したりしたときなど)でも、神のうちにとどまることができたのは不思議というほかありません。ペテロは、私たちが神の民とされたのは「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき(θαυμαστος)光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(Ⅰペテロ2:9)と述べています。
  • 私たちの人生にも数多くの神の不思議なみわざがなされて今があります。その恵みを一つひとつ数えてみることは大いに意義のあることです。その「不思議なみわざ」を覚えることが、旧約の礼拝でした。そしてそれは新約の私たちにおいても然りです。イエス・キリストの十字架の身代わりの死が、私に対する神の究極の愛の現われであると教えてくださった聖霊の助けを心から感謝します。

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