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瞑想Ps37/A

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瞑想Ps37/A

  • この詩篇のキー・ワードを「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」(23、24節)としたいと思います。ダビデ(あるいはダビデの信仰に倣う人)のこの格言は私たちに大きな励ましを与えます。ダビデはたとえ過ちや失敗を犯したとしても、神は決して見捨てることはない。再び立ち上がらせてくださる。これが彼の人生経験から学んだ知恵でした。
  • 「倒れることはある」のです。しかし、「まっさかさまに倒されはしない」(新改訳)、「全く打ち伏せられることはない」(口語訳)」、「それで終わりではない」(LB訳)のです。なぜなら、主がしっかりと支えていてくださるからです。「まっさかさまに倒される」という表現は、「再び起き上がれない状態」を言います。しかし、ダビデはそうなることは決してないというのです。
  • 使徒パウロも同じようなことを言っています。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行き詰まることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(Ⅱコリント4章8~10節) 「四方八方から苦しめられることがある」「途方にくれることがある」「迫害されることがある」「倒されることもある」しかし、「窮することはない。行き詰まることはない。見捨てられることはない。そして滅びることはない。」のです。
  • なぜでしょう。なぜ、苦しめられたり、途方にくれたり・・・・することがあるのでしょう。その理由(目的)は、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。イエスのいのちーそれは「宝」です。「測り知れない神の力」です。その力が土の器である私たちの中にあるのです。それがあかしされるためなのです。 それゆえ、窮することも、行き詰まることも、見捨てられることもないのです。
  • 私たちにはそれぞれ神の教育プログラムがあります。神の人として、信仰の人として成長するための育成プログラムです。その原則は私たちに教えられていますが、個々の具体的なプランはだれにも教えられていません。しかしその神のプログラムを受け入れ、主を信頼して、生きるならば、やがて神のいのち、測り知れない神の力がその人を通してあかしされるようになるのです。
  • 聖書の中の格言、知恵と言われる詩篇の多くは、バビロン捕囚という経験を通して作られたものであったと信じます。詩篇1篇の「幸いなことよ。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」そんな生活を実際にする人は捕囚前にはだれもいなかったのです。詩119篇の作者も「苦しみ会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」と言っていますが、このことばも捕囚という苦しみの経験なしには考えられないことばです。また、彼らの苦しみとは自分のたちの国を失ったということにとどまりません。本当の神を知らない異教の民たちが、神を恐れず悪を行ない、不正がまかり通っているのに彼らが繁栄しているという現実、魅力的と思えるような現実を目にすることで起こってくる誘惑、すなわち、彼らに対する妬み、憤りです。詩篇37篇にはそうした現実に対して「腹を立てるな」「ねたみを起すな」「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。」と諭します。なぜなら「彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」(2節)からです。
  • 聖書の知恵は、そうした時代に翻弄されることなく、もっと長い目で、永遠の相の視点から、私たちの歩むべき道を教えて指し示してくれます。3節~7節までに記されている四つの知恵(格言)を見てみましょう。これらの四つは別々の事柄ではなく、すべて深いつながりを持って連動しています。

(1) 主に信頼して善を行なえ。地に住み。誠実を養え。(3節)

  • 「地に住み」とは、自分の置かれた場から逃げ出さないで、踏みとどまるという意味です。そこで、神に対する誠実、人に対する誠実を養えと勧められます。順境の日から私たちが学べるものはほとんどありません。むしろ、逆境の日に、私たちは人の弱さと心の優しさ、そして互いに思いやることを学ぶのです。苦しみの中での神への信仰と人との連帯を学ぶのです。それゆえ、私たちが置かれている場所が自分にとって辛い場所であればあるほど、その環境の中で主に仕えることを学ぶことです。失敗もあるでしょう。思うようにうまくことが運ばないこともあるでしょう。さまざまなトラブルに巻き込まれることもあるでしょう。しかしそうした状況から逃げ出さずに、そこから何かを学ぶことです。今まで自分がしてこなかったこと、新しいことにチャレンジするチャンスだと受け止めることです。

(2) 主をおのれの喜びとせよ。(4節)PLUGIN_SIZE_USAGE

  • そうした生き方ができるためには、主をおのれの喜びとしていることが重要です。「主を喜ぶことはあなたがた力です。」 こういう人を倒すことはきわめて困難です。どんなことも益にされてしまいます。喜びは、自発的なところにしか存在しません。強制されているところには「喜び」はありません。律法的な生き方をしているクリスチャンには「主を自分の喜びとする」ことはありません。喜びとは、自発性、愛の自発性に支えられていることなのです。

(3) あなたの道を主にゆだねよ。(5節)

  • 愛による自発性、これは主との親しい交わりの中で培われると信じます。「ゆだねる」ためには、主を知ること、主との親しい交わりが必要です。しかし、ゆだねることが私たちになかなかできないのです。ゆだねる相手が神にもかかわらずです。ここに私たちの根深い罪があります。主にゆだねること、主を信頼することは私たち信仰者の生涯のテーマと言えます。

(4) 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。(7節)

  • 私たちは「主の前に静まる」ことのできないものです。自分からいろいろと動いてしまうものです。それは恐れのゆえです。主を信頼し主にゆだねることの安全を経験すると、主の前に静まることができるようになります。詩篇46篇にも「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」とありますが、同じメッセージです。「やめよ」とは静まれ。自分で戦うな。主の前におれ! ということです。これは、マルタのライフスタイルではなく、マリヤのライフスタイルです。私たちは毎日の生活の中で、主の前にどれほど静まることをしているでしょうか。今日の社会においては、これは戦いです。選び取らなければならない戦いです。自動的には勝利できません。ですから、この格言(知恵)に倣おうと思うならば、ライフスタイルの変革を余儀なくされます。意識改革が必要です。難しいことかもしれませんが、測り知れない力がもたらされると信じます。

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