瞑想Ps4/A
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瞑想Ps4/A
- この詩篇の中で特徴的なことばを取り上げて瞑想していきたいと思います。その特徴的なことばとは、1節の「私の義なる神」、5節の「義のいけにえ」ということばの中にある「義」という言葉です。
1. 「義」は神と人との信頼関係を表わす概念
- 義ということばは、正義とか、正しい行いとか、厳しいというイメージが浮かびますが、そのような意味合いではこの詩篇は理解できないと思います。義とは関係概念を表わす言葉です。特に、神と人との信頼関係を表わします。ダビデは神を「私の義なる神」と表現しました。尾山訳では「御前に正しい者として立たせてくださる神」と訳しています。TEV訳では、O God, my defender ! と訳しています。「私の身を守る神、防御者、弁護者としての神」をイメージします。そのような神に対して、どこまでも信頼し、拠り頼むことが正しい関係です。
- 5節に「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め」とありますが、「義のいけにえをささげ」るとは、主が自分にとってどのようなお方であるかを知り、その主にどこまでも信頼して拠り頼んで生きるという関係、つまり、主との愛と信頼の関係を築くことではないかと思います。この信頼の絆を築くことこそ、神と人との関係において最も基本的なことであり、「マリヤ型」ライフスタイルだと信じます。そこからすべてが始まっていきます。
2. 義なる神を知れ(体験せよ)
- 神と人との信頼関係を、この詩4篇においては、主の側では、人に対して「ご自分の聖徒を特別に扱われる」(3節)と表現しています。ここにしかない表現です。神の特別待遇です。その特別待遇の具体的な面は、「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」(3節)という事実にあります。これは詩3篇4節にもありました。そこには「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると・・答えてくださる」とあります。その声は、叫びであり、うめきであり、泣く声であり、切なる願いです。いずれにしても、神はこれらの声に耳を傾け、聞いて、答えてくださるのです。そういう関係にあるということ事態が驚くべきことです。他の人が羨むような、特別な神の待遇によってもてなされるという関係です。
- その関係は、無力な赤子が母親に泣いて拠り頼む姿に似ています。母親は赤子の泣き声をきいて、お腹をすかしている声か、体のどこかが具合の悪い時の声かを聞き分けます。母親は自分の子どもを愛をもって大切に扱っているので、子の泣き声の意味するところが分かるのだとするならば(もっとも良い母親であるならば、ですが・・)、なおさらのこと、主はご自分の子どもたちに声を聞き分け、そして特別に扱われるのは至極当然のことです。私たちに対するこうした主のかかわりについて、ダビデは深く「知れ」と私たちを促しています。ダビデのすばらしさは、呼べば答えてくださる義なる神を深く経験したことです。しかも、その経験の多くは「苦しみのとき、苦しみの中」(1節)でした。
- ダビデはさらに、たとえ自分の置かれた状況が思わしくない時や不条理な出来事に遭遇したとしても、感情的になって怒ることをして罪を犯すことがないように(新改訳の訳ではよく理解できません。他の聖書を参照のこと)、むしろ、静まって(沈黙の中で)自分の心に語りかけるようにと諭しています(4節)。
3. 神の私たちに対する義の祝福
(1) ゆとり
- 主なる神の私たちに対する義の祝福は、第一に「ゆとり」を与えられることです(1節)。苦しみの中にあると、心にゆとりをもつことができなくなり、つい「むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求め」てしまいます。つまり、私たちには、神以外に一時の不安を打ち消すもの、気を紛らわすものを求めてしまう弱さがあります。しかし、義なる神は苦しみの中でも、私たちにゆとりを与えてくださる方です。
(2) 安 眠
- 詩3篇にも、詩4篇にも「身を横たえて、眠る(眠りにつく)」という表現があります。これは、神との正しい信頼関係にある者の祝福です。不安と恐れのゆえに、安眠ができずに苦しんでいる人が多くいます。神を敬う人でも、この祝福を奪われる事態に陥ることがしばしばです。
(3) 喜 び
- 主との信頼の絆は、私たちの心に喜びがもたらされます。この喜びこそ食べ物や飲み物がふんだんにあるときにも勝るものです。この喜びとは、生存の保障と防衛の保障を私たちに与えくださる方がいつも私の近くにいてくださるという喜びです。神の御子イエスは、この喜びを「わたしの喜び」と言いました。その喜びの源泉は、御子が御父の愛の中にとどまっていることによってもたらされたものです。この同じ喜びが私たちの中に満たされることこそ、信頼の絆の祝福です。それは私たちのすべての力と知恵と愛の源泉です。
- 詩篇4篇の私の瞑想のキーワードは「義のいけにえをささげ、主に拠り頼む」です。詩篇の中には、モーセの幕屋でささげられる動物のいけにえに代わって、より精神的な心のいけにえが求められています。これはダビデの幕屋による礼拝改革のひとつの成果と言えます。詩4篇に出てくる「義のいけにえ」をはじめとして、「賛美のいけにえ」、「喜びのいけにえ」、「感謝のいけにえ」、「砕かれた、悔いた心のいけにえ」です。
4. 義のいけにえをささげる
- 特に、最初の「義のいけにえ」が、詩篇の最初のいけにえとして出てきていることは意味あることだと私は考えています。なぜなら、義という関係なしには、賛美も喜びも感謝も、そして悔いた心のいけにえもあり得ないからです。新約の恵みに生きる私たちは、この義を、イエスを通して、イエスを信じる信仰によって与えられているのです。私たちの良い行いや、良い働きなどによってでは決してありません。
- 私をあるがままに受け入れ、特別待遇で祝福してくださる神、この神こそ「私の義なる神」です。その神に、私は、今、心を新しくして、拠り頼んで歩んで行きたいと思います。また、今朝のキー・ワ-ドを、ヨハネの福音書15章でイエスが「わたしにとどまりなさい」「わたしのことばにとどまりなさい」「わたしの愛の中にとどまりなさい」と招いておられることばと共に味わってみたいと思います。