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恩寵用語Ps77

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詩77篇 (1) 「聞く」 אָזַן アーザン 

〔カテゴリー愛顧〕

  • 1b節「私が神に向かって声を上げると、神は聞かれる。」(新改訳)
  • 1b節「神に向かってわたしは声をあげ、神はわたしに耳を傾けてくださいます。」 (新共同訳)

Keyword; 「聞く、耳を傾ける、親身に聞く」 listen, hear, pay attention,
5:1/17:1/39:12/49:1/54:2/55:1/77:1/78:1/80:1/84:8/86:6/135:17/140:6/141:1/143:1

◆神が私の祈りを「聞かれる」と訳されたアーザンאָזַןは旧約で41回、詩篇では15回使われています。名詞形のオーゼンאֹזֶן(’ozen)の意味は「耳」ですが、不思議なことに、名詞形であってもほとんど動詞のように訳されています。旧約で187回、詩篇では22回と動詞よりも多く使われています。名詞形の引用箇所は次の通り。
10:17/17:6/18:6/31:2/34:15/40:6/44:1/45:10/49:4/58:4/71:2/78:1/86:1/88:2/92:11/94:9/
102:2/115:6/116:2/130:2/135:17/

◆動詞と名詞を総計すると詩篇では37回ですが、そのうちの26回は恩寵用語として用いられています。人が神のことばを、あるいは人のことばを聞くよりもずっと、神が私たちの声に耳を傾けてくださることが多いことを知ることができます。

◆「聞く」という動詞には、もうひとつのヘブル語シャーマーשָׁמַע(shama`)があります。旧約では1159回と、アーザンאָזַןとは比べものにならないほどです。意味は両方ともほとんど変わらないように思います。

◆さて、詩77篇1節には「神は聞かれる、神はわたしに耳を傾けてくださる」とあります。これはこの詩篇の結論だと考えることができます。どのように聞いてくださったかといえば、何も答えず、ただ耳を傾けて親身に聞いてくださっただけで、願いに対して具体的になにかされたということはありません。神は終始沈黙し、作者の語りかけや疑いや間違った結論を出したとしても一切、なんらコメントすることもなく、ただじっと耳を傾けて聞くだけでした。そのことによって作者は思いをはるかに超えた神の真実に導かれていきます。そして大切なことに気づかされたということです。神の親身な傾聴―それは私たちに対する思いやりであり、愛そのものです。

◆詩77篇には4つの瞑想用語が使われていますが、神の傾聴に支えられた瞑想と言えます。詩77篇をみると瞑想には段階があり、問題の事柄にばかり気を取られていると、そこから導き出される結論は否定的、消極的です。特に、この詩77篇では、転機となる11節以降の瞑想に入るまでは「私」(14回)が中心でした。しかし転機以後は「私が、私の」の姿は一掃し、「あなたは、あなたに、あなたの」(同じく14回)に一変します。神がただ耳を傾けてくださっただけで、こんなに驚くべきことが詩人の心の中に起こったのです。


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詩77篇(2) 「奇しいわざ(を行う)」 פָּלָא パーラー

〔カテゴリー防御〕

  • 12節「まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。」(新改訳)
  • 14節「あなたは奇しいわざを行われる神・・です。」 (新改訳)

Keyword; 「奇しいわざを行う wonder, do marvelous,
〔動詞 9:1/17:7/27:7/31:21/40:5/71:17/72:18/75:1/78:4, 11,32/86:10/96:3/98:1/
105:2, 5/106:7, 22/107:8, 15, 21, 24,31/111:4/118:23/119:27/131:1/136:4/139:14/145:5
〔名詞 77:11, 14/78:12/88:10, 12/89:5/119:129

◆詩77篇の作者が霊の呻きから解放されることとなつた転機は、彼が、昔からの神の奇蹟のわざに思いを向け始めたことでした。

  • 「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。私は、あなたの名さったすべてのことに思いめぐらし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」(11, 12節)
  • 「あなたは奇しいわざを行われる神・・です。」(14節)

◆ただし、詩77篇で使われているのは11節も14節も、いずれも名詞形のペレפֶּלֶא(pele')です。旧約では13回、そのうち詩篇が7回使われています。

◆動詞の「奇しいわざ(を行う)」パーラーפָּלָא(pala')の原義は「不思議に見える、驚嘆する」といった意味です。詩篇では26回(旧約では73回)使われていて、詩篇の特愛用語といえます。

◆この名詞形ペレפֶּלֶא(pele')が聖書で最初に登場するのは、出エジプトしたイスラエルの民が紅海を渡ると同時に、追ってきたエジプトの軍勢が海に放り投げられたことです。神の圧倒的な勝利を経験したモーセと民たちがこぞって神を賛美したその歌はこうでした。

  • 「主よ。神々のうち、だれがあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行うことができましょうか。」(出15:11)

◆「奇しいわざ」とは神にしかできない奇蹟です。神の民であるイスラエルはまさに神の奇しいわざによって存在し得ています。歴史における様々な民族存亡の危機にも、神の奇しいわざはなされて助け出されました。このとき、人々はただ静かにしていなければなりませんでした。モーセは民に言いました。

  • 「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人を永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(出14:13,14)

◆この戦いにおける神の奇しいわざは、歴史の中で常に変わらない神の民の原点です。そこに思いを巡らし、静かに瞑想するとき、たとえ自分が置かれている環境が絶望的に見えたとしても、神の奇しいわざを待ち望むことができ、そこにはじめて神による慰めと希望を見出すことができるのだと信じます。

詩77篇(3)「贖う」 גָּאַל ガーアル

〔カテゴリー救出〕

  • 15節「あなたは御腕をもって、ご自分の民ヤコブとヨセフの子らを贖われました。」(新改訳)

Keyword; 「贖う」redeem, rescue, 19:14/69:18/72:14/78:35/103:4/106:10/107:2/119:154

◆「贖われる」と訳されたガーアルגָּאַל(ga'al)は聖書においてとても重要な神の恩寵を意味する動詞です。旧約では103回使われています。詩篇では11回と少ないのですが、レビ記、ルツ記、イザヤ書の特愛用語です。

◆ガーアルגָּאַל(ga'al)の原義は、「買い戻す」(buy back)ことです。神から与えられた土地をなんらかの理由で処分しなければならなくなった場合、最も近い親戚(ゴーエール)がそれを買い戻さなければなりませんでした。そのことはレビ記25章、民数記35章、申命記25章に神の律法として詳しく示されています。もし子孫を残さずに死んでしまった場合は、遺された妻を娶り、その妻が最初に産んだ男の子に死んだ者の名前を継がせて、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければなりませんでした。

◆このように、ゴーエール(買い戻す権利のある親戚)は、落ちぶれて困窮している兄弟、あるいは親類のために、金銭的な犠牲を払ってその苦境から救い出す義務と責任があることを律法によって定められていました。とはいえ、それはかなりの経済的な負担、そのうえ親類の妻と結婚するということになれば、おいそれと簡単に引き受けてくれるようなものではありませんでした。それをおいそれと引き受けてくれたゴーエールの物語がルツ記の物語です。ゴーエールは「近親者としての買い戻す義務を果たす者」という意味ですが、その背景には、神がご自身の民を「買い戻し」た出来事が根底にあります。エジプトにおいて奴隷となっていた民をその束縛から解放して、ご自身の民として買い戻されました。これが「贖い」です。ちなみに、名詞の「贖い」はゲウッラーגְּאֻלָּה(ge'ullah)。

◆「贖う」ガーアルגָּאַלには、「買い戻す」という意味と、そこから派生して、奴隷から、死から、敵から「救い出す」という意味があります。買い戻すために身受けするということは、ある種の束縛、あるいは捕われの状態が前提となっており、その状態からの解放がまさに「贖う」いうことです。これは、やがては神の子イエス・キリストによって「罪からの救い」、「律法からの救い」「霊的な死からの救い」を意味する「贖い」へと展開していきます。買い戻すために払われる代価は、キリストご自身の血(命)でした。

◆イエス・キリストは言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人々の贖いの代価として自分の命を与えるためです。」(マルコ10:45) イエス・キリストという方以外に、私たちが贖われる道はありません。キリストの血潮はそれほどに尊い代価であり、私たちは神に買い戻された者なのです。そのことを心から感謝し、永遠の「贖い主」である主イエス・キリストをほめたたえます。

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