礼拝用語Ps77
Ⅲ/A(73~89篇) | テキストPs77 | 原典テキストPs77 | 瞑想Ps77/A | 瞑想Ps77/B | 瞑想Ps77/C | 恩寵用語Ps77(1) | 恩寵用語Ps77(2) | 恩寵用語Ps77(3) | Ps77の「かかわりの構造」 | Ps77の四つの瞑想用語 |
詩77篇 (1) 「(助けを求めて)叫ぶ」צָעַק ツァーアク
詩77篇 (2) 「(手を)差し伸ばす」 נָגַר ナーガル
詩77篇 (3) 「思い起こす」 זָכַר ザーハル
詩77篇 (4) 「思いを潜める」 שִׂיחַ スィーアッハ
詩77篇 (5) 「思い返す」 חָשַׁב ハーシャヴ
詩77篇 (6) 「思い巡らす」 הָגָה ハーガー
詩77篇 (1) 「(助けを求めて)叫ぶ」 צָעַק ツァーアク
〔カテゴリー祈り〕
1節「私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。」(新改訳)
1節「神に向ってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます。」(新共同訳)
Keyword; 「叫ぶ」 cry out, cry for help, shout 34:17/77:1/88:1/107:6, 28
- 「叫ぶ」と訳されたツァーアクצָעַק(ts`aq)は、大声で叫ぶ(cry out)、叫ぶ(shout)ことを意味します。旧約では55回、詩篇では5回です。新共同訳では「助けを求めて叫ぶ」と訳され、NIV訳も I cried out to God for help です。
- ある意味で、切迫性、緊急性を伴った叫び、あるいは心の呻きを伴った叫びです。そして祈りが聞かれるまでは決してやめない継続的な叫びであることが特徴です。
- この詩篇では、語るよりも前に、叫びの声が喉の奥から出でくる言葉にならない悲痛な響きが感じられます。叫びは具体的な苦しみを通して出てきますが、誰に向って叫ぶのかが重要です。作者は神に向い声を上げて叫んでいます。しかも、「私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる」と告白しています。
- ここではどんな内容の「叫び」なのかは記されていません。最も大切なものを喪失した叫び、存在的・実存的叫び、悔いの叫び、孤立や死を目前にしたときの叫び、苦しみの叫びです。このような叫びを通して、神とのかかわりはより直線的なものとなると信じます。イエスも大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ、これは『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味―」と叫ばれました。そんな叫びをもった祈りがあってよいのだと気づかされます。
- ツァーアクצָעַק(ts`aq)の類義語としては以下のものがあります。
(1) ザーアクזָעַק(za`aq) cry, 22:5/107:13/107/19/142:1/142:5
(2) ラーナンרָנַן(ranan) cry out, sing, sing for joy, shout for joy, rejoice, 5:11/20:5/32:11/33:1/35:27/51:14/59:16/63:7/65:8/67:4/71:23/81:1/
84:2/89:12/90:14/92:4/95:1/96:12/98:4/132:9/132:16/145:7/149:5 歌を伴う叫びで、叫びの内容が明確であることが特徴です。
(3) カーラーקָרַא(qara') call, cry, shout, 3:4/4:1,3/14:4/17:6/22:2/31:17/57:2/66:17/69:3/118:5/130:1/ 呼ぶ、呼び求める。
(4) シャーヴァーשָׁוַע(shawa`) cry for help, 18:6, 41/22:24/28:2/30:2/31:22/72:12/88:13/119:147 助けを求めて主に叫び求めることが特徴です。
- 「叫ぶ」という類義語が多くありますが、大切なことは、こうした叫びを聞きいてくださる神がおられるということです。自分の人生の中で、いつ、どんな叫びを上げ、神はその叫びにどのように答えてくださったか、そのことを思い巡らさなければなりません。
詩77篇 (2) 「(手を)差し伸ばす」 נָגַר ナーガル
〔カテゴリー祈り〕
2節「苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばした・・」
Keyword; 「手を差し伸ばす、手を伸べる、手を差し出す」 stretched out 63:10/75:8/77:2
- 「手を差し伸ばす」と訳されているナーガルנָגַר(nagar)は、旧約で10回、そのうち3回が詩篇で使われています。「渡される、注ぎ出す、差し伸ばす」という意味です。特に、詩77篇の主に「手を差し伸ばす」ということは、神に心を注ぎ出して祈る行為を表わします。神との強いかかわりを希求する表現のように思います。
- 詩77篇は、神の不在経験の中で、作者はたゆむことなく主を「尋ね求め」דָרַשׁ(darash)ながらも、なおも暗い森の中にいます。そこで作者はその森の中で、やがて祈りの核心に触れることになります。神の臨在(顕現)は人間同士がいっしょにいるという経験とはあまりに大きな違いがあるために、その違いゆえに私たちはしばしば神の不在と捉えがちです。しかし、神の不在感が強く感じられるほど、神の臨在を新たな感覚で捉えることにつながります。聖なる神は私たちの思いや考えをはるかに超えたところにおられるからです。
- 神の不在と神の臨在はまさに紙一重です。詩篇にはそうした例が多く見られます。
詩22篇もその一つです。新共同訳で見てみましょう。―とあるように、ここには神の不在と嘆きの訴えとともに、神の確かな臨在がイスラエルの歴史において常にあったことを回顧しています。神の不在は神の臨在から切り離されることはないのです。このことを思い起こそうとしているのが、この詩77篇です。2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
4 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
- 神の臨在の秘義は、神の不在についての深い意識によってのみ触れられると言っても過言ではありません。親の子に対する愛が、子が遠く離れているときにいっそう深くなるように、あるいは愛する者同士が長い間会わずにいると、より深く相手の良さを再発見できるように、神との親密な関係も不在であることによって、よりいっそう神との関係が深化するのです。
- 霊的生活の基本は、期待を持ち続けながら忍耐強く待つことです。神の不在しか感じられないときにも、祈りのうちに神に手を差し伸べるとき、私たちのある種の幻想が砕かれていき、神の確かな臨在があることに霊の目が開かれるかもしれません。
詩77篇 (3) 「思い起こす」 זָכַר ザーハル
〔カテゴリー瞑想〕
3節「私は神を思い起こして嘆き・・・」
6節「夜には私の歌を思い起こし、自分の心と語り合い・・・」
11節「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からの、あなたの奇しいわざを思い起こそう。」
Keyword; 「思い起こす、思い出す、心に留める、覚える」 remember,
8:4/9:12/20:3, 7/22:27/25:6, 7,7/42:4,6/45:17/63:6/74:2, 18, 22/77:3, 6, 11,11/78:35,39,42/83:4/87:4/88:5/89:47,50/98:3/103:14, 18/105:5, 8,42/106:4, 7, 45/109:14, 16/111:5/115:12/119:49, 52, 55/132:1/136:23/137:1, 6, 7/143:5/
- 瞑想用語のひとつザーハルזָכַר(zakhar)は、ほんとんどの場合rememberと訳されることが多いようです。日本語訳では「思い起こす」(新改訳)「思う、深く思う」(口語訳)「思い続ける」(新共同訳)「思い出す」(尾山訳)「心に呼び戻す」(尾崎訳)「想う」(関根訳)と訳されています。
- ザーハルזָכַר(zakhar)は、あのとき、このとき、あのこと、このことの一つ一つを思い起こし、それを神の恵みとして感謝することの大切さを教えることばです。「思い起こし」をしてみるとき、一見平凡に見える私たちの生活におけるすべてのことが、神の大いなる恵みの中で保たれていることを発見します。イエス・キリストの恵みにより罪が赦されていること、毎日、命が保たれ、健康が与えられていることなど、すべてが神の恵みの連続なのです。この視点からの「思い起こし」こそ、私たちを新しくする力を与えてくれます。
- 私たちは、すでに持っているもの、与えられているものに対しては考えずに、今持っていないもの、与えられてないものを絶えず考える傾向があります。エジプトから救い出されたイスラエルの民たちもそうでした。日毎の糧として、神からマナを与えられたとき、最初は感謝して喜びましたが、そのうちにすぐに飽きて、不平不満にとらわれはじめました。平凡な生活の中に神の恵みが絶えず注がれていることにもっともっと私たちは気づくべきです。特別な出来事に対しではなく、むしろ、日常の平凡な生活において主に感謝すべきです。主はまことにいつくしみ深いのですから。そして、その恵みはとこしえまで変わることがないのですから。そのような「思い起こし」を図ることこそ瞑想の祝福です。
- かつて感謝できなかったことや、今も不満に思っているような出来事を、いつくしみ深い神の恵みの視点から、そのことをもう一度「思い起こし」てみる必要があるかもしれません。ものごとを否定的にみるならば、その人の人生は暗く、悔いと恨みの人生になるかもしれません。しかし、物事を肯定的に見ることができるならば、その人の人生の将来は明るく、創造的な祝福がもたらされるに違いありません。不用意に、過去を思い起こすことではなく、そこに神の恵みが絶えず流れていたことを発見する「思い起こし」は、私たちに新しい気づきを与え、思いがけない輝ける未来へと導かれることになると信じます。
詩77篇 (4) 「思いを潜める」 שִׂיחַ スィーアッハ
〔カテゴリー瞑想〕
3節「私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めてשִׂיחַ、私の霊は衰え果てる。」(新改訳)
6節「私の霊は悩んでשִׂיח問いかけます」(新共同訳)
12節「私は、・・あなたのみわざを、静かに考えようשִׂיחַ。」(新改訳)
Keyword; 「思いを潜める、静かに考える」muse, consider, tell, meditate, speak
77:3, 6, 12/105:2/119:15, 23, 27, 48, 78, 148/143:5/145:5
- 「思いを潜める」と訳されたスィーアッハשִׂיחַ(siach)は「じっくりと考える、黙想にふける、静かに深く考える」という意味です。特に、詩篇においては、神がなさった奇しいわざについて、神の戒めやみことばについて、深く考え、思うことのようです。12節では、「あなたのみわざを、静かに考えようשִׂיחַ(siach)。」と訳しています。
- 新改訳では3節に「思いを潜める」と訳されていますが、それは呻きを伴うために、「私の霊は衰え果てる」と続います。6節では「私のたましいは問いかける」と訳されていますが、新共同訳「私の霊は悩んで問いかけます」と訳しています。「悩んで」という部分のことばがスィーアッハשִׂיחַ(siach)です。つまり、スィーアッハשִׂיחַ(siach)は、悩み呻くことと、思いを潜めることが結びついた意味合いをもった動詞です。
- スィーアッハשִׂיחַ(siach)は名詞形(男性)と全く同じ文字です。苦痛や苦しい思い、嘆きを表わすことばでもあります。詩篇では55:2, 64:1, 102:T, 104:34, 142:2で使われています。
- 3節、6節、12節にあるשִׂיחַを辿っていくと、そこにひとつのプロセスがあるように思います。作者は自分に起こった叫ばざるを得ない現実の中で、神を思い起こし、その意味(理由、原因など)を尋ね求めようとします。しかし、自分が直面する苦悩を通して、自分の心のひだをめくりながら、自分の心に潜心していくと、そこに巣くっている自分の問題の根に気づきはじめます。それは決して楽しいことではなく、むしろ苦痛でさえあります。そのために、「私の霊は衰え果て」てしまいます。それにもかかわらず、作者は「わたしのたましいは問いかけ」(6節)続けます。そうするうちに、次第に冷静になって「静かに考える」ことができるようになり、いつしか自分を客観的に見ることができるようになるのです。
- 「思いを潜める」(「深く思う」「悩む」)とは、苦難や問題の中で、自分の心としっかりと向き合うことであり、そのことを通して、自分の心にかかっている覆いに気づき、それが取り除かれていくためのプロセスと言えます。これこそが「深く思う」ことであり、意味のある「悩み」と言えるのではないかと思います。ある牧師は自分には「悩む力が与えられている」と気づいたと話していました。「思いを潜めた」結実なのかもしれません。
詩77篇 (5) 「思い返す」 חָשַׁב ハーシャヴ
〔カテゴリー瞑想〕
5節「私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。」
Keyword; 「思い返す」 think, consider, devise, plot,
10:2/21:11/32:2/35:4,20/36:4/40:17/41:7/44:22/52:2/73:16/77:5/88:4/106:31/119:59/140:2, 4/144:3
- 「思い返す」と訳されたハーシャヴחָשַׁב(chashav)は、旧約で112回、詩篇では17回使われています。基本的には「考える」という動詞ですが、悪を企んだり、陰謀を図ったりという悪い面もあったり、自分の歩んできた道を顧みて、反省したりという良い面もあります。
- 人が自分の過去を考えるならば、人に対して悪さを図ったり、人を陥れることを考えたりしたことは一度や二度ではなかったと思います。自分のそうした悪い面を思い返して、静かに反省する時を持つことは、私たちがより良い人生を歩むために必要なことです。
詩119篇59節では「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ、足を向けました。」と述べています。詩77篇5節の「私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した」というのも、単に、昔の出来事を思い返すだけでなく、そこになんらかの自己反省を含んでいると考えてよいと思います。
- 瞑想における自己反省は、私たちの生き方の転換点となり得ます。イエスが話された放蕩息子のたとえ話で、弟息子が父から受け継いだ財産を使い果たし、今にも飢え死にするようなみじめな姿になり果てたとき、はじめて、彼は我に帰りました。弟息子は自分の道を思い返して反省しました。今の自分の姿は自分がそもそも父のもとから離れたことが間違いだったことを認め、父のもとに帰る決心します。かつては「私に財産の分け前をください」と言った彼が、今や「あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と思うようになっていました。同じ願いでも、「分け前をください」という願いと、「雇い人のひとりにしてください」という願いとでは雲泥の差があります。
- 瞑想の中で自分の過去の姿をしばしば思い返して静かに顧みることは、自分を高慢から守るうえでとても大切なことだと思います。また、このハーシャヴחָשַׁבは、自分がかつて苦しみを通った折に、神の恵みと導きのほかに、そこを通過させた要因が自分のうちにあったかどうかを思い返すという意味もあるかもしれません。自分のうちにある処し方の特徴―良い意味でのーを思い返してみるのも良いかもしれません。
- ハーシャヴחָשַׁבをdevise(企む), plot(悪いことを図る)と訳している聖書もあますが、反面、自分を神にあって建て上げていくために、健全な自己反省をもって計画する姿勢を表わす動詞でもあります。
- ちなみに、このハーシャヴחָשַׁבが神の恩寵として用いられると、「認められる」「評価される」という意味になります。その意味で聖書で最初に登場するのは、創世記15章6節「彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。アブラハムはその信仰によって神から正しいと評価されたのです。これこそ永遠に価値あるものです。
詩77篇 (6) 「思い巡らす」 הָגָה ハーガー
〔カテゴリー瞑想〕
12節「私は、あなたのなさったすべてのことに思い巡らし、・・・」
Keyword; 「思い巡らす」 meditate, plot, think, utter a sound
1:2/2:1/35:28/37:30/38:12/63:6/71:24/77:12/115:7/143:5
- 「思い巡らす」と訳されたハーガー(הָגָה)は、礼拝用語としてすでに詩1篇で取り上げています。この};(の動詞は瞑想用語として重要な動詞です。詩1篇では「口ずさむ」と訳されていますが、詩77篇では「思い巡らす」と訳されています。旧約全体では25回と使用頻度は多くはありませんが、そのうちの10回が詩篇で使われています。このことばの特徴は、すべてを継続的に思い巡らしながら、やがて、口から語り出すまでを含んでいます。たとえば、77:12、143:5でも「神のなさったすべてのことを思い巡らす」とあり、「昼も夜も」(1:2)、「夜ふけて」(63:6)も継続的に思い巡らしています。そして、やがてそこから神の知恵を「声をたてて」(115:7)「語り」(37:30)出すようになります。
- ハーガーהָגָה(hagah)は、牛が草を何度もにれはむように、反芻している光景を思い起こさせます。熟成という言葉がありますが、ハーガーהָגָה(hagah)は、まさに神のことばや神がなされたことの意味を思考の中で咀嚼し、熟成させる行為と言えます。
- 旧約聖書では食物規定があり、食べてよいものとそうでないものとがはっきりとしていました。食べてよい動物としてあげられているのは、ひずめの別れた動物、そして反芻する動物です。この二つを兼ね備えた動物は食べてよいが、それ以外のものは食べてはならないとされています。ちなみに、食べてよいのは、牛、羊、山羊といった動物でした。
- 牛の自然な行動パターンを観察した人によれば、牛は、4~5時間かけて草を採食し、一日、14時間は横になって休息していると言います。その時間には反芻している時間も含まれています。つまり、良い乳を出すためには、横になって休息をとっていることが大切なのであり、そうした時間をしっかりとっている牛こそ生産性の良い牛だと言われています。ですから、酪農家の仕事は牛が横になって、のんびりと反芻することのできる環境を提供してあげることだと言います。
- 反芻とは「一度、噛んで飲み込んでものを、再び口の中に戻して、再咀嚼することです。」そうした再咀嚼する反芻動物の特徴は、四つの胃を持っています。第一の胃が最も大きく全体の80%を占めています。草を食べて第一の胃に取り込まれた草の繊維を消毒し、分解するのは酵素ですが、この酵素は唾液の中に含まれています。唾液の中に含まれる酵素は胃の中にいる微生物によって作られるのだそうです。唾液は噛むことで、咀嚼することでより多く分泌します。牛が横になって、反芻する時間をしっかりとることによって唾液の分泌が活発になり、それが細菌を殺し、消化を良くし、それが良い乳や肉を作っていくからです。―これらのことを思うときハーガーהָגָהの重要性がより良く理解できます。