****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps77/C

Ⅲ/A(73~89篇) | テキストPs77 | 原典テキストPs77 | 瞑想Ps77/A | 瞑想Ps77/B | 礼拝用語Ps77 | 恩寵用語Ps77(1) | 恩寵用語Ps77(2) | 恩寵用語Ps77(3) | Ps77の「かかわりの構造」 |Ps77の四つの瞑想用語 |

瞑想Ps77/C

  • 新改訳聖書が第3版に改定された際に、詩篇77篇で1箇所だけ変更された箇所があります。それは6節の最後の部分です。「私のたましいは問いかける」(第2版)が「私の霊は探り求める」(第3版)と訳し直されました。ヘブル語は「ハーパス」(חָפַּשׂ)で、「探す、尋ねる、問いかける」という意味です。新共同訳では「わたしの霊は悩んで問いかけます」と訳しています。個人的な好みとすれば「問いかける」という訳の方が好きです。J.アプリ(「聖書の賛美歌(詩篇とその解説2)」、エンデルレ書店、1966)の訳では「わが霊はつぶさに問いかくるなり」としています。
  • 新共同訳の「悩んで」とか、アプリの「つぶさに」とあるのは、「ハーパス」(חָפַּשׂ)という動詞がここでは強意形(ピエル形)で使われているためです。強意形とは普通の意味以上に強められたりするときに用いられる話態です。ちなみに、この詩篇77篇では、2節の「(慰めを)拒んだ」、4節の「(心乱れて)言うこともできない」(つまり、語らない、沈黙するということ)、そして6節の「探り求める(問いかける)」に使われています。これらの強調された動詞をたぐると、安易な慰めを拒む姿、心乱れるがゆえの沈黙、そして自分の深いところから出てくる神に対する強い問いかけをもっている作者の姿が見えてきます。
  • 「私」という存在のうちにある「探り求め」(問いかけ)の内容は7~9節に記されています。

7
「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。
もう決して愛してくださらないのだろうか。
8
主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。
約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。
9
神は、いつくしみを忘れたのだろうか。
もしや、怒って
あわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」 セラ

  • ここにみられる「問いかけ」は、すべて否定的、消極的です。それゆえ、そこから導きだされた結論も否定的にならざる得ませんでした。それが10節の「「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」というものでした。そこには、なんらの慰めも希望もありません。しかしこの詩篇のすばらしさは、実はこの後からはじまるのです。
  • 「私」が導き出した結論はどうも自分が納得いかないものでした。それゆえ、再び、瞑想が始まっていくのです。その瞑想のプロセスの中で、「私」という主体が「あなた」に変えられていき、13節以降においては、全く「私」という人称が消えてしまっています。そして、「神よ。あなたの道は聖です」(13節)、「あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。」(19節)と告白し、具体的な解決がみられないにもかかわらず、10節に見られるような結論ではなく、希望と慰めを得た結論へと導かれました。瞑想の中に働かれた霊(ルーアッハ)は、この「私」を神との正しいかかわりへと導かれたと言えます。
  • 瞑想の極意とは、まさに神とのかかわりおいて、ゆるぎない確かな愛のかかわりを築くことなのです。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional