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御子の血による贖い

第5日目 御子の血による贖い

  • 〔聖書箇所〕1章7節 【新改訳改訂第3版】

1:7
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」

ἐν ᾧ ἔχομεν τὴν ἀπολύτρωσιν διὰ τοῦ αἵματος αὐτοῦ, τὴν ἄφεσιν τῶν παραπτωμάτων, κατὰ τὸ πλοῦτος τῆς χάριτος αὐτοῦ,


はじめに

  • 天の父なる神は、御子イエス・キリストを通して、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。私たちの父は祝福の神であり、私たちひとりひとりを祝福したいと願っておられるばかりか、その祝福の一切合切の手だてを周到な計画をもって準備された方です。そうした周到な計画をもって準備された祝福の中から、前回は、私たちを神ご自身の子どもとするためにこの世界の基の置かれる前から選んでおられたということを学びました。私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選び、愛されたのです。
  • そのことが具体的にどのようにしてなされたかを説明する一文が7節です。
    「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」
  • このフレーズにある「贖い」という
    語彙は、キリスト教の大切な真理を表す専門用語です。この語彙について、できるだけわかりやすくお話ししたいと思います。 
  • 7節では、これまでの3~6節にある「神は・・」という主語が、「私たちは・・」に変化し、「・・を受けている」という受身形の表現になっています。つまり、「この御子のうちにあって、受けている」と記されています。 
    ※ただし、原文では「エコメン」ἔχομενとあり、「私たちは持っている」we haveという動詞です。受動態の動詞ではありませんが、この御子イエスがなされたことが私たちと深くかかわっているために、「受けている」と訳されています。キリストにあって私たちが受けている(持っている)のは「贖い」です。「贖い」とはどんな意味なのでしょうか。まずは、このことばの定義からはじめたいと思います。

1. 「贖い」ということばの意味

  • 新約聖書の「贖い」と訳された原語は「アポリュトローシス」です。しかし、その意味は旧約の流れを受けています。以下は旧約が意味している「贖い」です。

    (1) 動詞の「ガーアル」 (贖う)
    人が失った財産や権利を身代わりとなって買い戻すこと


    (2) 名詞の「ゴーエール」(贖う者、贖い主)
    人が失った財産や権利を身代わりとなって買い戻す資格のある人物のこと

  • いずれも、「身代わりとなって」ということばが出てきます。だれかのために身代わりになるということは、何か得をするというよりも、代わって責任を取るとか、弁償するといった、自分にとって損失を招くようなリスクを感じさせるイメージがあります。
  • 神の民であったイスラエルの民は、きわめてレベルの高い福祉を神によって保障されていました。神が定めたゴーエールの義務、あるいは責任について聖書は記しています。落ちぶれて困窮している親類がいた場合、その親類を救い出す義務と責任を負うべきことが、神の律法によって定められていたのです。その場合、ゴーエールとなる者の資格は親戚で一番近い者がその責任を果たさなければなりませんでした。内容的には、
    (1) かなりの金銭的負担の責任を要するもの
    (2) 子孫を絶やさないために、その名がイスラエルから消し去られないようにする責任を要した。具体的には残された妻を娶り、生まれる長男に死んだ兄弟の名前を継がせなければなりませんでした。それぞれの神の子孫がその名を絶やさないためです。
  • 福祉理念としてはすばらしい内容ですが、その責任を果たすことは現実的には決して容易でないことは推察できます。買い戻す権利は、それを持つ者にとって、必ずしも喜ばしいものではありませんでした。なぜなら、余りにもリスクが大きすぎたからである。良い福祉理念であっても、必ずしも、現実的ではなかったのです。
  • ところが、聖書の中に、その負担、責任と義務を喜んで引き受けた人物がいます。旧約聖書の「ルツ記」に登場するボアズという人です。イエス・キリストの系図に、実は、このボアズがいることを頭の片隅にでも入れておきましょう。そこで、これからゴーエールという買い戻しの権利を持つ者がどういう者かを一つの物語を通してお話したいと思います。それは旧約聖書の「ルツ記」の物語です。

2. 「ルツ記」に見るゴーエールとしてのボアズ

(1) 飢饉のため約束の地を離れざるを得なかったエリメレク一家

  • 飢饉という問題、生死にかかわる問題にぶつかったとき、人は神から与えられたものや場所を放棄してしまいやすいことをこの物語は取り上げています。信仰の父と言われたアブラハムさえも、飢饉という問題に直面したとき、神に導かれた場所を離れ、自分勝手に食べ物が豊かにあるところへと移っていきました。決して他人事とは思えない問題です。
  • このルツ記に登場するエリメレクの一家もそうでした。彼らはイスラエルの地のベツレヘム(パンの家)という場所を離れて、モアブという地に移りました。当然、神から与えられていた土地の財産を人に売り払って行ったのです。そのエリメレク一家の構成は、夫のエリメレク、妻のナオミ、そして二人の息子たちでした。

(2) 不条理とも思える試練の中で夫と息子を失った妻ナオミと息子たちの二人の妻

  • ところが、移り住んで間もなく、夫のエリメレクが死にました。その後、二人の息子たちはそれぞれモアブ人の女性を妻として迎えました。妻の一人はオルパ、もう一人はルツでした。
  • そこで彼らは10年ほど暮らしましたが、その間に、その二人の息子たちも妻を残して死んでしまいました。残されたのはエリメレクの妻ナオミと二人の息子たち妻、オルパとルツでした。彼女らは途方に暮れたでしょう。稼ぎ頭を失ったのですから。相次ぐ不条理な死を彼女らは経験しました。なんでこうなったのか、そもそも、自分たちの住むべき場所を、神から与えられた土地から離れたのが間違いだったのでは・・といろいろな自分を責めることばがナオミの心に聞こえていたのかどうか、聖書はそのことについては沈黙しています。

(3) 故郷に戻る決心をしたナオミと彼女を慕ってついてきた嫁のルツ

  • 姑のナオミは、いろいろと考えて自分の故郷であるベツレヘムに帰ろうと思い立ちました。そのころナオミは、自分たちが捨てたベツレヘムの畑には豊かな収穫があることを人づてに聞いていました。そして二人の息子の嫁を呼んで「あなたがたも自分たちの父の家に戻りなさい」と勧めました。しばらく「帰れ」「帰らない」という問答が続きますが、オルパという嫁は聞き従って帰りました。しかし、もうひとりの嫁であるルツは姑のナオミにどこまでもついていくと言って、すがりついて離れませんでした。ルツはナオミに何と言ったと思いますか。こう言ったのです。
    「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私に仕向けないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったなら、主が幾重にも罰してくださるように。」と。ものすごいルツの決心にナオミは何も言うことができませんでした。
  • ルツの決心もすばらしいですが、そう言わせたナオミの影響力もすごいと思いませんか。「あなたの神は私の神です」と言わせたのです。自分の夫が死に、二人の息子たちも死んだのに、彼女が神を呪うことをしなかったからだと思います。そのナオミの神への信仰にルツの心になにかしらふれるものがあったのではないかと思います。単なるご利益的信仰ではこうはなりません。
  • ルツの決心もすばらしいですが、そう言わせたナオミの影響力もすごいと思いませんか。「あなたの神は私の神です」と言わせたのです。自分の夫が死に、二人の息子たちも死んだのに、彼女が神を呪うことをしなかったからだと思います。そのナオミの神への信仰にルツの心に何かしら触れるものがあったのではないかと思います。単なるご利益的信仰ではこうはなりません。
  • 昔、NHKで「おしん」というドラマがありましたが、ナオミはまさに「おしん」のようです。どんな苦難や困難にも耐える姿です。ルツもナオミと運命を共にすると言っても、将来的にみて何の保障もないのですが、ルツはオルパとは違って、ナオミの信じる神を信じるようになりました。ここにも神の確かな選びが隠されています。異邦人のルツがやがて救い主であるイエス・キリストの子孫となる者の母となるのですから。そんなことを彼女は知るよしもありませんでしたが、確実に、神のご計画の中に導かれていくのです。

(4) 「はからずも」

  • 故郷に戻った二人は、人の畑で落ち穂拾いをするしかありませんでした。ところが「はからずも」、そこはボアズという人の畑でした。二人が旅をしてベツレヘムに着いたとき、ナオミを知る者たちが驚きました。「ナオミ」じゃない!! ナオミはこれまでの自分の人生に起こった辛い出来事を正直に話しました。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んで下さい。」と言いました。これはかつての私ではありません。夫も息子もいて満ち足りていましたが、今では何もかも失った者です。「マラ、おしんと呼んでください」と自分に起こった出来事を正直に話しました。見栄を張らないこうした正直さも、ナオミがルツに与えた感化のひとつではないかと思います。
  • 不条理とも思える試練の中で、もしナオミが自分の運命を嘆き、神に対して愚痴をこぼすような姑だとしたら、ルツ記は書かれなかったと思います。ナオミの苦しみは、異邦人であるルツが神の民に加えられるための周到な神のご計画だったのかもしれません。まさに度重なる苦難の嵐の中に咲いた一輪の花、その一輪の花こそルツという存在なのです。⇒ロマ8章28節。しかし、まだ姑のナオミはこのことに気づいていません。
  • 彼らがベツレヘムに着いたからと言って、自分の家もなく、仕事もあるわけではありません。当時、イスラエルの国で、人の畑での落ち穂拾いは、孤児とか、未亡人、貧しい者、在留異国人といった、いわば「社会的弱者」のために設けられた公の救済の道でした。しかし、神の律法が規定するそうした福祉の理念と現実にはギャップがあったようです。不親切、邪魔者扱い、いじめを思わせるような発言が記されています。
  • ところが、そうした現実の中で、「はからずも」です。人の思いや考えを越える「はからずも」です。ルツが出かけて行った畑の持ち主は、なんとナオミの親戚に当たるボアズという人の畑だったのです。

(5) ルツとボアズとの出会い

  • ここで、ルツとボアズははじめて出会います。ボアズは人づてにルツのことを知っていたらしく、彼女に親切にするよう、わざと多くの落ち穂を落とすように自分の部下に指示しました。ボアズのルツに対するその親切な態度に、ルツ自身が驚き、意外に思ってこう尋ねました。「どうして親切にしてくださるのですか」と。その質問にボアズが答えています。それはあなたが姑ナオミに良く仕えていること、自分の父や母を捨てて、ナオミを信頼して見知らぬ地に来ていることなど聞いているからです。おそらくそこにルツの神への信仰も見たのだと思います。
  • 夕方、ナオミのもとに抱えきれないほどの落ち穂を持って帰ってきたルツの口から、ボアズの名前が出たときのナオミの驚きは尋常なものではありませんでした。なぜなら、このボアズこそ、先祖の代から譲り受けた土地を買い戻し、絶えんとする家系の血筋を残すことのできる権利をもっている人だったからです。また、ナオミの尋常ではない驚きは、それだけ、彼女たちの立場が弱く、みじめで、困窮していたことを物語っていると思います。

(6) ナオミの妙案

  • ボアズの名前がルツの口から出たとはいえ、彼が神の律法が定めている「買い戻し」をしてくれる人かどうか、それを試すために、ナオミはルツにある一つのことをするように指示しました。その指示は当時の習慣だったようですが、ボアズの寝ているところに忍び込んで寝るということでした。それはボアズの権威の下に身を置くという当時の習慣だったのですが、もし拒絶されれば、深く傷付けられるかもしれない行為です。しかし、ナオミはボアズのルツに対する親切が単なる親切なのか、それともゴーエールとしての義務を果たしてくれる人物だからなおかを知りたかったのです。

(7) ゴーエールとなることを公言したボアズ

  • その答えをナオミは知りました。ボアズがゴーエール、つまり買い戻しの権利を持つ者として、ナオミとルツの財産を買い戻してくれるばかりか、ルツを自分の妻として迎え、その血筋の者を絶やさないための責任を自発的に果たすことを公言してくれたのです。
  • 「買い戻しの権利」というものは、それを持つ者にとって、必ずしも喜ばしいものではありませんでした。なぜなら、その責任を果たすということは、相当な経済的負担を余儀なくされたからです。しかしボアズはあえてその責任を果たすというのです。そのあかしとして大麦6杯をプレゼントしました。これは「責任をもって事にあたります」という意思表示でした。これはルツに対する真の愛がなければできないことではないでしょうか。しかし、ボアズは「買い戻しの権利」を持つ一人ではありましたが、法的にはボアズよりも近い親類ではありましたが、がいました。
  • ドラマはいよいよ大詰めです。しかしここで、ボアズよりももっと法的に近い「買い戻しの権利を持つ親類」がその責任を果たすならば、ルツとボアズの出会いはそれまでです。ところが、その彼が公の場で拒否したのです。それを断る理由は、まず、ルツが異邦人のモアブ人であるということ。神の律法では異邦人のモアブ人は10代目の子孫でさえ、主の集会に入ることはできないとされていました。とすれば、ルツを助け、妻として扶養する義務は法的にはないのです。へたをすれば、負担が多くて、自分自身の相続地までも損なうことになりかねない。その人は親切な心がなかったわけではありませんでしたが、親切心だけでは、ひとたび落ちぶれた者を徹底的に買い戻すこと、つまり贖うことはできなということです。余りにリスクが大きすぎる。ボアズのルツに対する愛がなければ買い戻すことはあり得ないことなのです。しかし、ボアズは全財産を投げ出してでも、エリメレクの財産を買い戻し、合わせて、ルツとナオミの生涯までも責任を負うことを、公の前で、告白したのです。
  • ルツにとって、ボアズはまさに神が備えて下さったゴーエール(贖い主)だったのです。そんな出会いが、「はからずも」与えられるとは、モアブの地を去る時にルツは考えもしなかったはずです。異邦人である彼女を、なんら偏見なしに、真実な愛をもって妻として迎え入れてくれるボアズと出会ったこと、それこそが、彼女が祝福された要因です。彼女の努力ではありません。神が備えてくださったボアスとの出会いこそ、神の恵みだったのです。人間的な視点からは「はからずも」のように見えますが、神の視点からは用意周到な、必然の計画だったのです。だれもが、ボアズのような人に出会いたいと思うはずです。


3. 永遠のゴーエール(贖い主)としてのイエス・キリスト

  • ボアズこそ、永遠の贖い主としてのイエス・キリストをあかししています。 実は、このボアズこそ神から遣わされた御子イエスを指し示しています。
  • 「贖い」とは「苦境からの救出」+「権利の回復」です。「苦境」とは、罪とそれがもたらすさばきを意味します。私たちは御子の血潮によって、すでに贖いの恵みとしての「罪の赦しを受けている」のです。「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)です。しかし、 私たちが犯した罪の支払いのために、 御子イエス・キリストが私の身代わりとなって死んでくださいました。それゆえ、私たちが支払う死はもうありません。これが罪の赦しです。それのみならず、イエス・キリストは死からよみがえられて、私たちが神の子どもとして生きるすべての祝福を、永遠に受けられるようにして下さいました。これがゴーエール(贖い主)です。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち、罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」
  • 御子イエスを私たちのために、遣わしてくださった父なる神が今も、そして後も永遠にほめたたえられますように。


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