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パウロの挨拶

第1日目 パウロの挨拶

  • 〔聖書箇所〕1章1~2節 【新改訳改訂第3版】

1:1
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。

Παῦλος ἀπόστολος Χριστοῦ Ἰησοῦ διὰ θελήματος θεοῦ τοῖς ἁγίοις τοῖς οὖσιν
[ἐν Ἐφέσῳ] καὶ πιστοῖς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ:

1:2
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

χάρις ὑμῖν καὶ εἰρήνη ἀπὸ θεοῦ πατρὸς ἡμῶν καὶ κυρίου Ἰησοῦ Χριστοῦ.


はじめに

  • わずか153節で書かれたエペソ人ヘの手紙とはどんな手紙なのでしょうか。パウロが書いた手紙は新約聖書の中に13ありますが、それらの手紙の中で、「珠玉の手紙」と言われるほどに、最高峰な内容と価値をもっているのがこのエペソ人への手紙です。ある人はこの手紙は「パウロ神学の真髄、そして頂点、最高峰」だと言っていますが、私もそうだと思っています。この手紙はパウロの晩年、ローマの獄中生活の中で書かれました。それまでの超多忙な伝道活動の戦線から退いて、ゆっくりとした時間の流れのなかで神を瞑想し、それが書簡という形で実を結んだと言えます。無駄な言葉はひとつとしてありません。1節1節のことばが神の霊によって記されているのです。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与える」(詩篇119:130)とあるように、私たちひとりひとりにみことばが開かれて、愚かな私たちに悟りが与えられるようにと祈りつつ、この「珠玉の手紙」をゆっくりと味わって行きたいと思います。

1. 差出人パウロ

  • 1節と2節のみを取り上げます。1節ではこの手紙の差出人と宛先が記され、2節では差出人の挨拶が記されています。まずは、1節のみをよく見てみましょう。
    「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。」
  • いろいろな修飾することばがついていますが、簡単にすると、「使徒パウロからエペソの聖徒たち」に宛てられた手紙だとわかります。しかし、それに付随していることばを正しく理解することは大切です。まず、差出人であるパウロを説明することばをみてみましょう。
    「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」・・ここにはパウロが自分自身をどのように理解していたのか、ということがわかります。この表現の中にはパウロの存在と働きをゆるぎないものとしている自己像が言い表されています。

(1) 「神のみこころ」によって定められた自分の存在と務め

  • 「神のみこころによる」とはどういう意味でしょうか。神のみこころ(御旨)には、二つの意味があります。

    ①定められた神の意志(計画)
    人はそれを妨害することはできません。必ず、実現する神の計画です。不可抗力で、予測不可能でもあります。神は誰とも相談することもなく、自分の思うままに、主権的に行われます。環境に支配されることもありません。


    ②望まれた神の意志(期待)
    神の子どもとしてふさわしく生きてほしいという神の期待です。それは人の意志に大きくゆだねられています。神が願っても、私たちがその期待に答えないということがあるのです。

  • しかし、1章1節の「神のみこころ」はどちらの意味かというと、前者、すなわち「定められた神の意志、計画」の方です。これは、エペソ書1章の11節の「みこころによりご計画のままをみな実現される方」も同じ意味です。5節の「みこころのままに」というのも同じです。
  • 「みこころ」ということば、原語の「セレーマ」θελήμαには、「喜んで」というニュアンスが含まれています。黙示4章11節にも、「主よ。われらの神よ。・・あなたはみこころのゆえに、万物を創造された」と天において賛美されていますが、その意味は「神は、万物の中のひとりである<あなた>を、みこころのゆえに造られた」ということです。つまり、神はあなたをご自分の喜びの対象として造り、存在させた」というのです。なんとすばらしいことでしょう。この世でだれがこの私を喜びの対象として愛してくれる方がいるでしょう。この私を造られた方だけです。
  • パウロは、「神のみこころによって」、この自分を神の喜びの対象として存在させ、しかも使徒として選んでくださったと自覚していたのです。私たちが「神のみこころによって」存在していることを信じるのと信じないのでは、生きる上で大変な差が生じます。神の深い計画と喜びの対象として、私が存在し、神の子とされているならば、そこに生きる使命が呼び覚まされます。しかしそのことを信じることができなければ、自分は偶然の産物でしかなく、神の計画を実現するなんらかの使命感もなく、ただ刹那的に過ごすこととなります。
  • そう考えると、自分が神のみこころによって存在しているという明確な事実を信じることはとても大切なことです。これは再度、5節でも触れることになりますので、このくらいにしておきましょう。

(2) 「キリスト・イエスによって遣わされた使徒」

  • 「キリスト・イエス」とはどういう意味でしょう。「キリスト」とは職名です。つまり、預言者、大祭司、王が、その働きを全うするために、神から特別な力(油注ぎ)を与えられた者という意味です。神から遣わされ、人となって来られたイエスこそ、これら三つの職を兼ね備えておられた方です。三つの役職は、イエスがこの世に来られるまで、それぞれ別の人々が担っていましたが(ただし、神によって立てられた王だけは、バビロン捕囚以降はおりませんでした)、 イエスこそ完全な預言者、完全な大祭司、完全な王としての働きを担う油注がれた者、すなわち「キリスト」としてふさわしい存在でした。それゆえに、「キリストはイエス」という言い方が成り立ちます。
  • パウロはこのキリスト・イエスから特使として使わされた「使徒」アポストロスἀπόστολοςなのです。尤も、使徒の条件は、本来、イエスと実際に生活を共にし、イエスの復活を目撃した証人でなければならなかった。しかしパウロの場合はイエスから直接的な啓示を受けたのである。13人目の使徒として立てられた。パウロは自分では使徒の呼ばれる価値のない者、ふさわしくない者だと述べている。なぜなら、彼は神の教会を迫害した張本人だからです。そんな彼が神の恵みによって選ばれ、しかもキリストの特使である「使徒」としての権威がキリストから直接に与えられて、今、この手紙を記しているのです。
  • 不思議といえば不思議。差出人であるパウロを説明することばの中に、神の深い恵みによって、今、自分があるのだとパウロは言っているのです。

2. 宛先のエペソの聖徒たち

  • このパウロから「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」と手紙が差し出されています。「キリスト・イエスにある忠実な」と称賛されているエペソの聖徒たちは、かつてオカルト(魔術)の影響下にありました。彼らが福音を聞いて、悔い改めたその実として、彼らが持っていた魔術の本を焼きましたが、それは今日のお金に換算すると、4,500万円もするほどでした。パウロは、最初はユダヤ人の会堂で、その後には、「ツラノの講堂」で、毎日、福音を宣べ伝えました。そして、エペソを支配していた霊的支配者大女神アルテミスの威光が地に落ちて、今やエペソの教会はアジア全体に大きな影響を与えるセンター的な教会となったのです。そうなるためには、使徒パウロによる霊的な敵との戦いがありました。と同時に、パウロはこの教会を建て上げるために3年間、みことばを教えることに心血を注ぎました。
  • 使徒の働き20章で、パウロはエペソの長老たちに語った訣別説教の中でこう語っています。
    「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておきました。・・私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを語って、弟子たちのほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばはあなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。・・・」(使徒20章27~32節)

3. パウロの挨拶

  • パウロは、今、遠く、ローマの獄中から、暗闇の支配からキリストの支配の中に移されて、聖徒となったエペソの教会の人たちに対して、次のような挨拶をしています。
    「私たちの父なる神と(私たちの)主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」
  • この相手を祝福する挨拶、実は「福音の真髄」を意味する挨拶です。「お元気で・・」という日本の挨拶も相手の安否を気遣う挨拶です。しかし、パウロの場合には、「私たちの父なる神とキリスト・イエスから(くる)恵みと平安」が与えられるようにという挨拶です。
  • ちなみに、英語の「Good-by」という挨拶。日本ではこれを「さようなら」と訳していますが、本当は、God bless you の略です。blessの頭文字のbとyouの頭文字のyをあわせて、byとしています。これはすばらしい挨拶だと思います。真意を知っていれば・・・。
  • ところで、パウロがエペソの聖徒たちに対する挨拶について、もう少し考えてみましょう。

(1) 「恵み」(カリス)χάρις

  • まず、「恵みと平安」の前者、「恵み」(カリス)ということばが意味する内容です。カリスは、好意、親切、思いやり、あるいは、憐み、慈悲、助け、さらに、賜物という意味があります。要約すると、「神があなたに寄せる特別な好意であり、当然与えられる報酬ではなく、本来値しないものに与えられる思いやりと親切に満ちたプレゼントだということです。」
  • 先にも述べましたが、パウロ自身がその恵みによって、神への反逆を赦され、なんと使徒として召されたのです。パウロは「私に対するこの神の恵みは、無駄にはならず、私は他のすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」とコリント人への手紙で記しています。神の恵みこそ、人を変え行く神の力です。律法とか、義務とか、では人は変えられることはありません。ただ神の恵みが人をそうするのです。パウロがエペソの聖徒たちに「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」、そうした「恵み」が注がれるようにと祝福の挨拶をしているのです。単なる社交事例のことばではありません。「相手の徳を高める挨拶をしているのです。」

(2) 「平安」(エイレーネー)εἰρήνη

  • 「エイレーネ」は「平安」「平和」とも訳せることばです。「平和」についてはこれまで礼拝の中でも話してきました。「平和」を求めるように。聖書の神は「平和の神」であり、「平和の君」です。そして「平和の福音」が父と子と聖霊によって私たちに伝えられました。
  • ギリシア語のエイレーネーは、旧約聖書の「シャーローム」ということばが背景となっています。前にも話をしたことがありますが、シャーロームは単なる平和だけでなく、もっと深い、巾の広い意味合いを持っています。

    ① 平和 (対国、対神、対人)和平、和解
    ② 平安 (個人的)平穏、無事、安心、安全
    ③ 繁栄 (商業的)
    ④ 健康 (肉体的、精神的)健全、
    ⑤ 充足 (生命的)
    ⑥ 知恵 (学問的)
    ⑦ 救い (宗教的)
    ⑧ 勝利 (究極的) 世に対する勝利

  • 「恵みと平安」、これは福音の真髄です。そのことばの中に父なる神が主イエス・キリストを通して私たちにもたらしてくださった福音の内容がすべて含まれています。
  • このことばによって、同じく主にある者たちを祝福する挨拶のことばとして私たちも使うようにしたいと思います。「主イエスの御名によって祝福します」と言って挨拶を交わすのも結構ですが、「神の恵みと平安が、あなたにありますように」、あるいは、できることなら、「神(主)の恵みと平安が、あなた(の上)にもありますように」と挨拶を交わしてみるのも良いかもしれません。特に「も」は、とても大切です。なぜなら、自分が経験していない祝福を人に分かち与えることはできないからです。
  • 初代教会において、ペテロとヨハネが神殿にお祈りに行こうとしたとき、美しの門の前で、生まれつき足の不自由な40歳くらいの人が、彼らに声をかけました。その掛け声は「私になにか恵んでください」という施しを求める声でした。ペテロは、ヨハネとともに、その男をじっと見つめて、「私たちを見なさい」と言いました。男はなにかもらえるだろうと思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。」といって、イエスの御名によって、歩くように命じ、手をとって立たせようとしました。すると生れながら足の不自由だった男は、たちまち足とくるぶしが強くなり、躍り上がってまっすぐに立ち、歩きだしました。はねたりもしたのです。この話で大切なことは、ペテロとヨハネが「わたしにあるものを上げよう」としたことです。自分にないものを人に分かち与えることはできません。
  • パウロの挨拶を単なる挨拶の常套句と思わないようにしたいと思います。「私たちの父なる神(様)と主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたの上にありますように」というこのパウロの挨拶は、パウロの13の手紙すべてに記されております。ただ、パウロの愛弟子であったテモテに対する手紙だけは、「恵みと平安」の間にもうひとつのことばが入っています。それは「あわれみ」ということです。「恵みとあわれみと平安がありますように」となっています。
  • 私たちが人に対して挨拶するときに、自分も同じく、「父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が」いつも注がれていることを感謝をもっていることが大切でしょう。でなければ、この挨拶は、うわべだけの挨拶でしかなくなってしまいます。ことばを大切に、しかも重く使うようにしましょう。私たちが、その場限りの嘘っぱちで、軽っぽい言葉として使っているならば、その人自身が不真実な、軽っぽい生き方をしていることになるのです。
  • 神の口から出ることばは、いつの時代でもいのちあることばとして、それを聞く者にダーバール(出来事)を起こします。ですから、たとい挨拶であったとしても、内容のある重みのあることばを私たちが口から出すように、いつも心掛けていきたいものです。
  • お互いに
    「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安が、あなたの上にもありますように」と言い合いましょう。


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